太田述正コラム#9370(2017.9.30)
<皆さんとディスカッション(続x3481)/現在の私の世界像>
<太田>(ツイッターより)
 「小池氏『改憲、安保』で踏み絵 民進左派30人斬り 赤松氏「どう対応していいのか困惑している」…」
https://news.infoseek.co.jp/article/29fujizak20170929010/
 野田政権でも民主党(当時)にとどまった「左」なんて全員「踏む」だろ。
 茶番批判回避のため、進んで磔にかかる聖者が何人出現するかが注目だ。
 「…26日深夜…小池、前原、<連合会長>神津の3氏は「政権交代に向けて一緒に力を合わせていこう」と確認した。…」
https://www.nikkei.com/article/DGXLASFS29H3K_Z20C17A9MM8000/?dg=1
 なるほど。
 で、磔刑を希望する聖者出現か。→「…枝野氏は無所属、新党視野…」
http://www.tokyo-np.co.jp/s/article/2017092901002292.html
<523BAxlw>(「たった一人の反乱(避難所)」より
 「野田佳彦元首相「先に離党した人の股くぐる気ない」・・・
https://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20170929-00000080-asahi-pol
>希望の党に(公認を)申請することは一夜城みたいな形式だけど、本気で安倍政権を打倒していくという意味では、一つの選択肢だと思う。
からの
>1人の無所属の、自民党を倒す候補として頑張る
 これは応援するわ。
<太田>
 その他の記事の紹介は、明日回しにします。
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 一人題名のない音楽会です
 ヴァイオリン協奏曲の隠れた名曲シリーズの8回目です。
 作曲年順にご紹介してきたのですが、都合で、今回と次回は、年を遡らせていただきます。
Strauss, Richard violin concerto Allegro(1880~82年)(注) ヴァイオリン:? 指揮:? オケ:?
https://www.youtube.com/watch?v=OcrmWJ2Dcsk
https://www.youtube.com/watch?v=pBgyq_6awEY
https://www.youtube.com/watch?v=6woZc59ulv8
(注)http://imslp.org/wiki/Violin_Concerto,_Op.8_(Strauss,_Richard)
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    –現在の私の世界像–ものすごいことが起こっている(メモ)–
※頁はスライドの頁
●1頁
 「皆さん。私が殺されたら、本来行われるべきだったまともな東大闘争・・・自衛隊を軍隊として機能させる<、つまりは、日本を再軍備/「独立」させる、ための闘争>・・・を、たった一人で58歳にもなって始めた誇大妄想狂のキチガイが日本にいたことを、たまには思い出してくださいね。」(コラム#2152。2007.10.28)
 =たった一人の反乱。この宣言から10年近くが経過した。
 この間、実は一人なんかじゃなかった、3年前と昨年に、超が付く強力な助っ人が、都合2名いることを発見した。
 一人は習近平だ。
 正しくは、彼一人というより、中共当局が、トウ小平以来、日本文明総体継受戦略を実施してきた(コラム#7177。2014.9.13)ことに気付いたもの。
 (それが、毛沢東以来であったことに気付いたのは、マルクス主義哲学者の廣松渉(1933~94年)が、マルクスは人間主義者だったと指摘していたこと(コラム#8012。2015.11.4)、「日中を軸とした東亜の新体制を! それを前梯にした世界の新秩序を! これが今では、日本資本主義そのものの抜本的な問い直しを含むかたちで、反体制左翼のスローガンになってもよい時期であろう。」という言葉を残していたこと(コラム#8032。2015.11.14)を知った一昨年だ。)
 もう一人は今上天皇だ。
 これも、正しくは、昭和、今上両天皇だが・・。
 これを、私は、「ものすごいことが起こっている」と表現したもの。
 
●2頁
 問題意識だけは変わっていないが、この10年の間に私の世界像は随分変わった。
 そこで、この「ものすごいこと」を、私の最新の世界像に即して説明するのが本日の私の話の眼目。
 目次をご覧いただきたい。
 総選挙だというのに悠長で小むつかしい話をしようとしているものだ、と思うかもしれないが、本日の私の話は、大方の人が関心を持っていると思われる今次総選挙の、私が見るところの、最大の争点と密接に関係しているのであって、最後にその点に触れる。
 私の話を聞いてる途中で、「ものすごい」どころじゃない、太田は気がふれている、と思われる方も出てくると思うが、最後まで聞いてもらいたい。
 わずか6年弱前の2011年末に今から私がする話を聞かされたら、私だって、講師は頭がおかしいと思ったかもしれないが、私のこれからの話は、基本的に事実によって裏付けられているのだから・・。
●3頁
 私が、中国の動きに異常なものを感じ始めたのは2012年に入った頃からだ。
 それは、習近平が胡錦涛に代わって次の中国の最高権力者になることが既定路線になった頃と一致する。↓
 「2010年10月18日、習近平は・・・党中央軍事委員会副主席に選出された。・・・<それ>以降、中国はアメリカや日本との対決姿勢を強め始めており、また北朝鮮の核開発を批判しなくなるなど、中国の外交に明らかな変化が現れた・・・
 2012年<11月15日>より・・・中国共産党中央委員会総書記、・・・中国共産党中央軍事委員会主席、2013年<3月14日>より・・・中華人民共和国主席」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%BF%92%E8%BF%91%E5%B9%B3
 まず、起こったのが、中国の官製メディアへの日本礼賛記事掲載だ。↓
 人民網(人民日報)での日本礼賛開始は2012年初か。(コラム#5299)
 一応日本の媒体であるサーチナによる親日キャンペーンに気付いたのは2016年だ(コラム#8297。2016.3.26)が、もっと前からこのキャンペーンは始まっていた、と思われる。
 (それがどんなものかは、例えば、昨日(2017.9.29)の私のコラム(#9368)参照。)
 次に起こったのは、尖閣諸島をめぐる、軍・警察を使った対日軍事攻勢だ。↓
 「2012年9月の日本政府<(野田政権)>による尖閣諸島国有化以降、中国の国家海洋局の監視船等の公船が尖閣諸島への領海侵犯を高頻度で繰り返しており、中国政府機関の航空機が領空侵犯も行っている」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%B0%96%E9%96%A3%E8%AB%B8%E5%B3%B6
 しかし、これは、無理筋のクレームであり、また、(防衛庁勤務経験に照らし、)軍・警察を使った対日軍事攻勢は無謀としか言いようがなかった。↓
 「…外交ルートで方針を伝え、「中国側は(都か国かの)二択なら国有化は仕方ないと判断していた」との印象だった<のに>…猛反発した…」(コラム#9334)
 そこで、私は、仮説を立てた。
 習近平は日本に再軍備・独立をさせようとしているのではないか、という・・。
 考えてみれば、中国による南シナ海実効支配の唐突な強化も異常だった。↓
 南シナ海実効支配強化の始まり:「2011年2月末から5回以上にわたり、中華人民共和国の探査船がフィリピンが主張する領海内において探査活動を繰り返し、5月には無断でブイや杭などを設置したことから、フィリピンのアキノ大統領はこれを領海侵犯とし、6月に国連に提訴する。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%8D%97%E6%B2%99%E8%AB%B8%E5%B3%B6
 中国当局は、私の仮説のようなことは仄めかしすらしていないが、一度だけ舌が滑ったことがある。↓
 「2014年6月1日、シンガポールで開催中のアジア安全保障会議 (シャングリラ対話) において、中国側代表の王冠中・人民解放軍副総参謀長 (当時) は、南シナ海の島々は2,000年以上前の漢代に中国が発見して管理してきたという旨の発言をした。この発言によって会場からは笑いが起こった。また、王は、名指しを避けながら中国に自制を求めた日本の安倍晋三首相 (当時) に対して、「安倍総理大臣は、遠回しに中国を攻撃し、ヘーゲル長官は率直に非難した。ヘーゲル長官のほうがましだ」と述べ、これに対して小野寺防衛相 (当時) は、「中国の反応は理解できない」と反論した。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%8D%97%E3%82%B7%E3%83%8A%E6%B5%B7
 その後、徐々に上述の私の仮説は確信へと変わっていった。
 それと同時に、もう一つの仮説が私を捉えた。
 それまでも、中国は、トウ小平以降、日本型政治経済体制の移植を図ってきたのではないかと思い始めていた(コラム#4000。2010.5.10)のだが、もっと広範に、日本文明総体の継受を図ってきており、日本を再軍備・独立させようとしているのは、そのことと密接に関係しているのではないか、という仮説だ。
 この仮説も、その後、徐々に確信へと変わっていく。
 なお、かつての反日歴史教育もそうだが、(日本べた褒めとは一見相矛盾する統合失調症的な)現在の対日軍事攻勢、は、この、中国の日本文明総体継受戦略の秘匿、とりわけ、米国に対する秘匿、のためにも不可欠であることに注意。
●4頁
 以上申し上げたことを理解するためには、まず、明治維新以来の東アジア史を大急ぎで振り返る必要がある。
●5頁
 「明治維新以来の東アジア史」の臍とでも言うべき大東亜戦争から始めよう。
 日本がこの戦争に敗れたということが当然視されているが、それはおかしい。
 戦争の勝敗は、戦争目的を達成したかどうかがメルクマール。
 (例えば、ベトナム戦争は1973年1月にパリ和平協定で「引き分け」で終わったことになっているが、その2年後の1975年4月に南北ベトナムの再統一が成った
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%99%E3%83%88%E3%83%8A%E3%83%A0#.E5.8D.97.E5.8C.97.E3.83.99.E3.83.88.E3.83.8A.E3.83.A0.E5.86.8D.E7.B5.B1.E4.B8.80.E4.BB.A5.E5.BE.8C
ことで、勝利したのが北ベトナムであったことは明白。)
 日本もまた、三つの戦争目的を、全て、1950年までに達成しているのだから、日本が大東亜戦争に勝利したことは明白なのだ。
 (この三つが日本の戦争目的であったことの典拠は長くなるので省略。)
 だから、日本において、大東亜戦争における戦争状態の終了を、「終戦」と呼んできたのは正しいのであって、「敗戦」と呼ぶのは間違いなのだ。
 さて、この三つの「うち、一番最初に(少なくとも紙の上で)実現したのは、日本が苦しめられていたところの、「<世界大恐慌以来の>ブロック経済の打破」<だ>。
 英米の世界に向けての共同宣言である大西洋憲章(1944年8月)の4、5項に「4.自由貿易の拡大 5.経済協力の発展」とあるから<だ>。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%A4%A7%E8%A5%BF%E6%B4%8B%E6%86%B2%E7%AB%A0
 蛇足の蛇足<だ>が、「3.政府形態を選択する人民の権利」については、「ルーズベルトがこの条項が世界各地に適用されると考えたのに対し、チャーチルはナチス・ドイツ占領下の<欧州>に限定されると考えた。つまり、<英国>はアジア・アフリカの植民地にこの原則が適用されるのを拒んでいた。ルーズベルトも実際には、「大西洋憲章は有色人種のためのものではない。ドイツに主権を奪われた東欧白人国家について述べたものだ」と側近に語った。」(上掲)というん<だ>から、「アジアの解放」は、その後、日本が勝ち取ったもの<なのだ>。」(コラム#9312)
 次に実現したのは、日本にとって大東亜戦争の、副次的目的であったアジア解放だ。
 (その前にビルマ(ミャンマー)が独立している
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%9F%E3%83%A3%E3%83%B3%E3%83%9E%E3%83%BC#.E7.8B.AC.E7.AB.8B
けれど、1947年8月のインド亜大陸の独立
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%A4%E3%83%B3%E3%83%89%E3%83%BB%E3%83%91%E3%82%AD%E3%82%B9%E3%82%BF%E3%83%B3%E5%88%86%E9%9B%A2%E7%8B%AC%E7%AB%8B
によって、アジア全体の解放が決定的になった、いや、アフリカの解放も含めて決定的になった、と言えよう。
 それを、事実上決定づけたのがインパール作戦だ。↓
 インパール作戦:1944年3月8日~7月3日。 
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%A4%E3%83%B3%E3%83%91%E3%83%BC%E3%83%AB%E4%BD%9C%E6%88%A6
 「終戦後、<英国>は<インパール作戦で日本軍と共に戦った>元インド国民軍将兵約20,000人を、<英>国王に対する反逆罪で裁こうとした(11月5日の発表では起訴の対象は約400名)。しかし、この裁判を機にインド民衆の間に独立の気運が一気に高まった。次々とゼネストや暴動が起きる中、国民会議派も「インド国民軍将兵はインド独立のために戦った愛国者」として即時釈放を要求、1946年2月には英印軍の水兵たちも反乱を起こし、ボンベイ、カラチ、カルカッタで数十隻の艦艇を占拠し「インド国民軍海軍」を名乗った。水兵たちは市民に混じって官憲と市街戦を展開、英印軍の将兵たちは<英国>人上官の発砲命令を拒否した。また、人々は<英国>の植民地政府による日本への戦勝記念日に弔旗を掲げて抗議の気持ちを表している。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%A4%E3%83%B3%E3%83%89%E5%9B%BD%E6%B0%91%E8%BB%8D#.E3.82.A4.E3.83.B3.E3.83.89.E5.9B.BD.E6.B0.91.E8.BB.8D.E8.A3.81.E5.88.A4
 最後に実現したのが、日本にとって大東亜戦争の主目的であり、幕末以来、追求してきたところの、対ソ(露)抑止であり、それは、1950年までに実現した。
 (ちなみに、その日本は、1991年12月に至って、ソ連崩壊によって、抑止を超えて、対露百年戦争(後述)に勝利することになる。)
 それは、二段階で実現した。
 第一に、中国で中国国民党政権を事実上打倒し中国共産党政権樹立への道筋を付けたことだ。
 それを決定づけたのが、インパール作戦と同じく1944年に断行された大陸打通作戦だ。↓
 大陸打通作戦:1944年(昭和19年)4月17日~12月10日。 
 「これにより国民党軍は大打撃を受けて国共内戦時に影響を受けた。・・・<また、>それまで蒋介石とその一派にのみ注がれ続けていた<米国>の目を、中国のもう一つの勢力、毛沢東指揮下の中国共産党軍に向けさせる効果を持った」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%A4%A7%E9%99%B8%E6%89%93%E9%80%9A%E4%BD%9C%E6%88%A6
 こうして、中国全体が、対ソ(露)抑止拠点化する運びとなった。
 第二に、終戦前から既にソ連との冷戦の兆候が見え始めていた米国の日本占領を受け入れ、事実でもって米国の洗脳を行って米国の反ソ(露)傾向を助長し、旧日本領であった朝鮮半島での1950年6月に勃発した朝鮮戦争を契機に、日本がやってきたことを、(日本の負担を最小限度に抑える形で、)米国に、東アジアのみならず、全球的に肩代わりさせることに成功した。
 これが、いわゆる吉田ドクトリンだ。
 ちなみに、吉田ドクトリンの成功に貢献したのが、米軍にぼろ負けしてほぼ壊滅させられ、大東亜戦争に敗北したと信じていた旧海軍の将官達と違って、大局的には日本が大東亜戦争に勝利したことを知っていた旧陸軍の将官達の沈黙だ。↓
 「「沈黙、弁解せず。一切語るなかれ」を家族に遺し、東条英機元首相はすべての責任を負い処刑台に登った…。」
https://books.google.co.jp/books/about/%E7%A5%96%E7%88%B6%E6%9D%B1%E6%9D%A1%E8%8B%B1%E6%A9%9F_%E4%B8%80%E5%88%87%E8%AA%9E%E3%82%8B%E3%81%AA%E3%81%8B%E3%82%8C.html?id=70WhAAAACAAJ&redir_esc=y&hl=ja
のは、一体どうしてか? いや、そもそも、戦後、(敗北していたと信じていた)海軍将官OB達の饒舌に比し(勝利したことを知っていたはずの)陸軍将官OB達がほぼ一様に沈黙を保ったまま亡くなっていったのは、一体どうしてか?
 →巧まずして究極の対米欺騙目的を達成。
 なお、認識しておかなければならないのは、結果として中国共産党政権が中国で樹立されたのではなく、中国共産党は、事実上、大東亜戦争を、日本と共に戦ったからこそ、政権を樹立できた(コラム#8628)、ということだ。
●6頁
 ファシスト国家とは、人種主義に基づき、自国の領土や勢力圏の拡大を図る国家。(私の定義)
 (米国は、ドイツと違って、創建時から一貫してそう。奴隷制の維持とアメリカ原住民の土地奪取のために独立。ワシントンもジェファーソンも奴隷所有者だった。
 リンカーンは、実は、南部の人々よりもひどい人種主義者であり、本当は黒人を全員国外追放したかった。(コラム#2901。2008.11.8)
 米国の(白人至上)人種主義はナチスドイツよりもひどい。(コラム#9011以下)
 そのことから、米国は、人種混淆を嫌悪して途中から領土の拡大を止め、勢力圏の拡大に切り替え、現在に至っている。(コラム#省略)
 米国は、史上、最も多くの人々(6,000万人)を、直接的・間接的に殺害した、と言えるのではないか。
 (この数字は、読者のべじたんさん(ハンドルネーム)作成データ
http://seesaawiki.jp/w/veg_tan/d/%ca%c6%b9%f1%a4%ac%c2%c0%ca%bf%cd%ce%c0%ef%c1%e8%b0%ca%b9%df%a4%cb%a5%a2%a5%b8%a5%a2%a4%cb%a4%e2%a4%bf%a4%e9%a4%b7%a4%bf%bb%e0
をTAさんが修正(コラム#9310、9314))
 「日本は、大戦ではナチスドイツと、戦後には米国と、それぞれ同盟関係を結んでソ連(ロシア)と冷戦を戦って勝利したが、両ファシスト国家を手玉に取った昔の日本人は凄かった。」(コラム#9322)と言うべきだろう。
 米→中の有色人種差別:中国人排斥法–1882年成立。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%B8%AD%E5%9B%BD%E4%BA%BA%E6%8E%92%E6%96%A5%E6%B3%95
 「黄遵憲<(こう じゅんけん)>は・・・<その>1882年<に>・・・、サンフランシスコ総領事へと転任し、日本を離れた。・・・在米華僑問題への思い<について、黄は、>初代大統領ジョージ・ワシントンが万国と国交を持ち、いかなる民族も平等に住むことができると宣言してより百年も経たないのに、今の<米国>政府はその言葉に背いても恥としない、と述べて<いる。>」(コラム#7989)
 米→日の有色人種差別:「1924年移民法<(排日移民法)で>・・・アジア出身者については全面的に移民を禁止する条項が設けられ、当時アジアからの移民の大半を占めていた日本人が排除されることにな<った。>・・・
 昭和天皇<は>敗戦後、日米開戦の遠因として「加州移民拒否の如きは日本国民を憤慨させるに充分なものである(中略)かかる国民的憤慨を背景として一度、軍が立ち上がつた時に之を抑へることは容易な業ではない(『昭和天皇独白録』より)」と述べている」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%8E%92%E6%97%A5%E7%A7%BB%E6%B0%91%E6%B3%95
 ちなみに、日露百年戦争(私の命名)とは、横井小楠コンセンサス(コラム#1613。2007.1.10)に基づくところの、1874年(佐賀の乱/台湾出兵)から1991年(ソ連崩壊)までに続いた、冷戦を含む戦争のことだ。(コラム#7685。2015.5.25)(コラム#8115)
●7頁
 中国が日本の再軍備/独立を望んでいるのは、単なる日米離間策では全くないのであって、日本文明総体継受をしつつあるからこそである、ということを説明する。
●8頁
 人間主義の日本文明が維持されてきたことは、武士道精神(弥生性)によって、その文明が内外の敵(非人間主義者達)に抗してこれたからこそ。
 すなわち、日本文明の普遍性を担保したものこそ武士道精神。
 (なお、「武士道」が成立したのは江戸時代なので、本来は、私の造語である「弥生性」を用いるべきだが、今回は、分かり易いと思って「武士道」にした。(コラム#5360、5362))
 「人間主義文明だったらしい、インダス文明も、また、アショーカ王の帝国も、カニシカ王の帝国も、ことごとく滅んだ」(コラム#9358)(後述)
 普遍性の話を先にしたが、日本文明の人間主義性こそ、その至上性のゆえん。
 狩猟採集社会の人間は全員が基本的に人間主義者だったが、農業社会の到来(余剰の出現)とともに人間の人間主義性は潜在化した、というのが私の仮説。
 例外はあったが、現在、人間主義性が顕在しているのは日本文明のみで、半顕在しているのはイギリス(アングロサクソン)文明のみ、というのが私の見解。
 なお、この「人間主義性」を、私は、「縄文性」とも呼んでいる。
 スコットランド人のデイヴィッド・ヒューム(1711~76年)は、<イギリス>社会の考察を踏まえ、『人間本性論(人性論=A Treatise of Human Nature)(1739年)の中で」、「道徳について・・・正と不正が印象によるものであるのか、観念によるものであるのかを検討しており、それが概念による把握ではなく感じるものであると述べている。その上で美徳を自身にとって快適なもの、他人にとって快適なもの、自身にとって有用なもの、他人にとって有用なものと、四区分しながら最後の部類に含められる親切心や正義が社会的には重要な美徳であると評価する。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%BA%BA%E9%96%93%E6%9C%AC%E6%80%A7%E8%AB%96
 マルクス主義は、本来、この人間主義社会の復活を追求するイデオロギー。
 中国当局は、「人間主義化」のことを、「人性化」と呼んでいる(コラム#8443)ところ、マルクス主義を捨てたわけではないのだ。
 (スターリン主義(マルクスレーニン主義)は、マルクス主義を、ロシアの領土・勢力圏の維持拡大のために捻じ曲げたものであり、マルクス主義の堕落形態だ。)
 なお、人間主義(人性主義)も私の造語。
 和辻哲郎(1889~1960年)『人間の学としての倫理学』(1934年)の「人間」概念に触発されたもの。
 人間主義とは何であるかをきちんと理解したいのならこの本は必読。
 なお、『菊と刀』(The Chrysanthemum and the Sword: Patterns of Japanese Culture)の中でルース・ベネディクトが、欧米、就中、アングロサクソン文明の至上性に立脚した文化相対主義の見地から日本を未開視してひねり出した、「恥の文化」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%8F%8A%E3%81%A8%E5%88%80
なるものと「人間主義」とは全く異なる。
●9頁
 本題に入る前に、縄文モード・弥生モード循環論(コラム#154。2003.9.14)とは何か、を、この際、説明しておく。(メモ省略。)
 天皇制の役割は極めて大きい。
 天皇は、日本文明の縄文性(文)と弥生性(武)の両方の象徴。
 武士の棟梁は貴種(皇族の血が流れている)でなければならなかった(コラム#2200)ことを想起せよ。 
 また、戊辰戦争(1868~69年)の時に、「有栖川・・・熾仁<(たるひと)>親王<が>自ら東征大総督の職を志願し、勅許を得た」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%9C%89%E6%A0%96%E5%B7%9D%E5%AE%AE%E7%86%BE%E4%BB%81%E8%A6%AA%E7%8E%8B
ことを想起せよ。
 また、毎年1月に皇居で行われている歌会始(コラム#8297)は、天皇が縄文性の象徴であることを示している。それは、万葉集以来続く、天皇が庶民と直結していることの象徴でもある。
 問題は、戦後、昭和天皇も、今上天皇も、縄文性の象徴だけ、という片肺飛行を余儀なくさせられ続けているところにある。
 さて、話の冒頭で触れた、昭和・今上両天皇の話だが、気付いたのは、今上天皇の譲位「強行」。↓
 「陛下が譲位のご意向を最初に示されたのは、2010年7月22日のことだ・・・。2016年10月13日の日経新聞は、当時の羽毛田信吾宮内庁長官、川島裕侍従長などが同席する中、陛下が「元気に務めを果たせなくなる前に譲位したい」と述べた・・・結局、<2012年>12月の解散総選挙で民主党が惨敗して下野したため、皇室典範改正の流れは消えた。そして昨<2016>年になって陛下のご意向を伝えたNHKのスクープでは、6年前の陛下の「譲位」という言葉が、「生前退位」という言葉にすり替わっていた。」
http://www.news-postseven.com/archives/20170221_493913.html
 要するに、国賊・逆臣自民党の安倍政権が、天皇の譲位意向を無視し続けたということ。
 自民党にとっては、属国日本の元首は、あくまでも米国の大統領であって、日本の天皇など、天然記念物的なお飾りに過ぎないのだ。
 安倍首相が、あのトランプが当選した後、大統領就任前に、早くも米国に(高額の貢物・・就任後なら違法・・のゴルフ・ドライバーを持参して)伺候した、世界で唯一の国家首脳であったという事実がそのことを象徴している。
 私が今上天皇の真意に気付いた背景には、昭和・今上両天皇の大東亜史観もさることながら、私が到達していたところの、日本史における天皇のユニークで重要な機能についての認識があった。
 それは、日本史において、天皇(両要素のバランサー・両要素の主従のモード転換者)の存在なくして、人間主義と武士道のセットを維持してくるのは不可能だった、という認識だ。(コラム#8297。2016.3.26)
 縄文モードから弥生モードへの転換の際の天皇の役割はとりわけ大きい。
 孝明天皇のケースを想起せよ。
 よって、今上天皇が、負担軽減が狙いなら他の方法はいくらでもあるというのに、譲位を国民に直接呼びかける形をとってまで強行したのは、それに類した、国民向けメッセージではないのか、と。
 もとより、全球化の時代にあって、第一次や第二次の縄文モードのような鎖国ができるわけがなく、もはや本来の意味でのモード転換など許されなくなっているという認識は今上天皇にもあると想像されるけれど、いずれにせよ、自民党が、ソ連崩壊以降も、再軍備/独立から逃げ回っていることに対する怒りの表明であり、国賊・逆臣の自民党への最後通牒に違いない、ということだ。
●10頁
 それまで、昭和天皇の日米戦争遠因論、今上天皇の済南事件(1928年)を出発点とする先の大戦観(コラム#214)、今上天皇との「対話」と後日談(コラム#8520等)、から、両天皇の大東亜戦争観が、米国、及び、中国国民党政権悪者論であることは重々承知しつつも、今上天皇が靖国神社参拝をしないこと(=昭和天皇が参拝を止めたこと)、昭和天皇も今上天皇も自衛隊を公式訪問しないこと、かつまた、今上天皇は日本側の戦争犠牲者の慰霊の旅を続けたことすら、両天皇による、天皇制維持を最優先にした戦後の吉田ドクトリンへの迎合であろう、という解釈をしていた。
 しかし、そうなると、この解釈も根本的に見直さざるをえない。
 そこで、靖国神社問題を改めて振り返ってみた。
 「1975年(昭和50年)8月、三木武夫首相は「首相としては初の終戦記念日の参拝の後、総理としてではなく、個人として参拝した」と発言。同年を最後に、・・・天皇の親拝が行なわれなくなった・・・第72代総理であった中曽根康弘・・・は1985年(昭和60年)8月15日以後は<対中配慮で>参拝をして<おらず、以後、歴代総理は、私的参拝はしても公式参拝はしないまま現在に至っている。>」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%9D%96%E5%9B%BD%E7%A5%9E%E7%A4%BE%E5%95%8F%E9%A1%8C
 三木首相が私的参拝を行ってから参拝しなくなったのは、自民党への叱責であって、それが叱責であることを認識させるためには、既に6年参拝間隔が開いていたので、同年に参拝を行った後、過去の参拝最大間隔7年を超える参拝間隔を開けなければならないところ、8年経過した時点で、今度は、中曽根首相が対中配慮で公的参拝(私的参拝もだが)を止めたことで、改めて、叱責するために、参拝を再延期した。
 ところが、それ以降の歴代首相も、参拝しなかったり、参拝したとしても、私的な形で、或いは、せいぜい公私を明らかにしない形でしか行わなくなったことから、参拝再開のきっかけが掴めないまま現在に至っている、と解すことができる。
(参考1)
 「昭和天皇は、戦後は数年置きに計8度(1945年・1952年・1954年・1957年・1959年・1965年・1969年・1975年)靖国神社に親拝したが、1975年(昭和50年)11月21日を最後に、親拝を行っていない。・・・平成の現在も今上天皇による親拝中止は続いている。なお、例大祭の勅使参向と内廷以外の皇族の参拝は行われている。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%9D%96%E5%9B%BD%E7%A5%9E%E7%A4%BE%E5%95%8F%E9%A1%8C#.E5.A4.A9.E7.9A.87.E3.81.AE.E8.A6.AA.E6.8B.9D.E5.95.8F.E9.A1.8C
(参考2)
歴代首相の靖国神社参拝数
東久邇宮稔彦王 1回
幣原喜重郎 2回
吉田茂 5回
岸信介 2回
池田隼人 5回
佐藤栄作 11回
田中角栄 5回
三木武夫 3回
福田赳夫 4回
大平正芳 3回
鈴木善幸 9回
中曽根康弘 10回
橋本龍太郎 1回(注a)
小泉純一郎 6回 (注b)
http://www12.plala.or.jp/rekisi/yasukuni.html
(注a)「橋本龍太郎首相が11年ぶりに靖国神社に参拝(公私を明らかにせず)、再び中国の抗議を受け、予定していた秋の参拝を中止する。続く、小渕・森首相も参拝<しなかった。>」
https://www.nipponkaigi.org/opinion/archives/821
(注b)「小泉総理インタビュー 平成18年8月15日・・・
【質問】 今回は記帳されていますが、総理大臣の立場としての参拝ということでしょうか。
【小泉総理】 総理大臣である、人間、小泉純一郎が参拝しているんです。
【質問】 公式な参拝と受け取ってよろしいのですか。
【小泉総理】 職務として参拝しているものではありません。・・・」
http://www.kantei.go.jp/jp/koizumispeech/2006/08/15interview.html
(参考3)
 「A級戦犯の人たちの魂が靖国神社に合祀されたのは1978年(昭和53年)のこと」(同上)だが、これを天皇の参拝停止の理由とする説の根拠とされているものは、天皇の公的な言動ではない。
 また、今上天皇の慰霊の旅も振り返ってみた。
 「天皇皇后両陛下の・・・日程
http://www.kunaicho.go.jp/page/gonittei/top/1
 この中で明確に慰霊を目的としたもの(と明記されているもの)は、以下の二つ・・・。
 アメリカ合衆国自治領北マリアナ諸島サイパン島・・・訪問(平成17年)
http://www.kunaicho.go.jp/activity/gonittei/01/gaikoku/h17america/eev-h17-america.html
 パラオ・・・訪問(平成27年)
http://www.kunaicho.go.jp/activity/gonittei/01/gaikoku/h27palau/eev-h27-palau.html ・・・
 <国内では、慰霊目的で平成6年に>硫黄島訪問<をされているが、それ>に続いて父島訪問をされてい<るところ>、そちらでは「視察」を何か所かでされているけれど、硫黄島ではされて<おらず、>・・・自衛隊部隊「視察」・・つまり公式訪問・・を徹底的に避けられていることが明確に分か<る>。」
 なお、昭和・今上両天皇が、自衛隊の栄誉礼
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%A0%84%E8%AA%89%E7%A4%BC
を単独で受礼されたことがないばかりか、日本を訪問した外国元首が自衛隊の栄誉礼を受礼する際においてまで、国際慣行に反して巡閲に同行されてこなかったこと、外国を訪問された際に、これまた国際慣行に反して、同外国軍の栄誉礼を受礼する際に、巡閲に駐在武官等の自衛官ではなく、同外国の武官を随行させてこられたこと、
http://www.sankei.com/premium/news/161105/prm1611050018-n1.html
も思い出し・・・た。
 これ<こそ>、もっと決定的なことかもしれ<ない>。」(コラム#9358)
●11頁
 中国は日本の後を引き受けたアジアの旗手。
●12頁
 インド:アショーカ王:マウリヤ朝3代目の王。在位:紀元前268年頃 – 紀元前232年頃。インド亜大陸をほぼ統一。「アショーカ王は晩年、地位を追われ幽閉されたという伝説があり、また実際に治世末期の碑文などが発見されておらず、政治混乱が起こった事が推測される。原因については諸説あってはっきりしないが、宗教政策重視のために財政が悪化したという説や、軍事の軽視のために外敵の侵入に対応できなくなったなどの説が唱えられている。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%A2%E3%82%B7%E3%83%A7%E3%83%BC%E3%82%AB%E7%8E%8B
 「インドの国旗(インドのこっき)は、サフラン・白・緑の横三色の中央に「アショーカ・チャクラ」(アショーカ王のチャクラ(輪)という意味)という法輪を配した旗。サフランはヒンドゥー教、緑はイスラム教、白は2宗教の和解とその他の宗教を表す。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%A4%E3%83%B3%E3%83%89%E3%81%AE%E5%9B%BD%E6%97%97
 「クシャーナ朝[の第4代君主の]・・・カニシカ[・・概ね2世紀半ばの人物であるという・・]はその治世の間に仏教に帰依するようになり、これを厚く保護した。このためクシャーナ朝の支配した領域、特にガンダーラなどを中心に仏教美術の黄金時代が形成された(ガンダーラ美術)。この時代に史上初めて仏像も登場している。軍事的にも文化的にも隆盛を誇ったカニシカ王の跡を継いだのは、おそらくカニシカの息子であろうと言われているヴァーシシカ王である。しかし、ヴァーシシカ王以後、クシャーナ朝に関する記録は極めて乏しい。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%AF%E3%82%B7%E3%83%A3%E3%83%BC%E3%83%8A%E6%9C%9D
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%AB%E3%83%8B%E3%82%B7%E3%82%AB1%E4%B8%96 ([]内)
 中国:『孫子』(紀元前500年ころ)
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%AD%AB%E5%AD%90_(%E6%9B%B8%E7%89%A9)
は、漢人が軍事が不得意であったからこそ生まれた。(私見)
 (軍事天才のゲルマン/ドイツ人が『戦争論』を生み出したのはナポレオン戦争敗北の衝撃ゆえ。(私見)
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%88%A6%E4%BA%89%E8%AB%96 )
●13頁
 毛沢東は、青年時代から、一貫して日本大好き人間であり続けてきた。(コラム#7989)
 日本文明総体継受戦略を追求する決意を早くから固めていたと私が見ている、毛は、日本の三点セット・・天皇と人間主義(縄文性)と武士道精神(弥生性=人間主義的非人間主義)・・を中国で作り出そうと試みたはず。
 天皇については後回しにしたが、中国人の大部分が非人間主義者であったところ、中国共産党員、すなわち、人民解放軍人、を弥生人もどきにすることに在野時代から腐心し、国家権力掌握後も、人民解放軍を党と表裏一体の関係の存在である党軍・・日本史で言えば幕府軍・・という非国軍の地位に置き続け、その長・・中国共産党中央軍事委員会主席・・、すなわち弥生人もどきの長、を、事実上、中国の最高権力者とする
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%B8%AD%E5%9B%BD%E5%85%B1%E7%94%A3%E5%85%9A%E4%B8%AD%E5%A4%AE%E8%BB%8D%E4%BA%8B%E5%A7%94%E5%93%A1%E4%BC%9A
ことで、軍が最重要機関であることを全人民に刷り込み続けるとともに、軍の文官集団化阻止を図ることとした後、残りの人民全体を縄文人もどきにすべく文化大革命を発動したものの、それが大失敗に終わり、これもまた将来の課題として世を去った。
 その毛沢東が、弥生人(人間主義的非人間主義者)もどきの模範例としたのが、縄文人(人間主義者)もどきであった雷鋒であったことは興味深い。↓
 雷鋒(1940~62年):「孤児として生きる。人民解放軍入隊後、勤勉かつまじめに兵役を務めたことはもちろん、老人や子供を助け、質素な生活で貯金したお金を被災地に寄付したり、現場工事に行って義務労働に参加したりする……などの数々の善人エピソードがあり、全く以って非の打ち所がない存在とされる。弱冠21歳の時、撫順市で電柱建設作業中に軍事用トラックに轢かれ亡くなる。」
http://dic.nicovideo.jp/a/%E5%AD%A6%E7%BF%92%E9%9B%B7%E9%8B%92%E5%A5%BD%E6%A6%9C%E6%A7%98
 ちなみに、中国人の大部分を占める非人間主義者を、魯迅は「阿Q」と名付けたところだ。↓
 『阿Q正伝』(1921年~):「魯迅は本作で、無知蒙昧な愚民の典型である架空の一庶民を主人公にし、権威には無抵抗で弱者はいじめ、現実の惨めさを口先で糊塗し思考で逆転させる彼の滑稽な人物像を描き出し<た。>・・・毛沢東<は>談話でしばしば「阿Q精神」を引き合いに出した」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%98%BFQ%E6%AD%A3%E4%BC%9D
 毛の大躍進政策、文化大革命については、話が長くなり過ぎるので省略する。
 さて、毛の後継者のトウ小平は、改革開放、すなわち、日本型政治経済体制中の経済体制の継受、但し中国共産党員を要所に配した形の継受、を図り、それに大成功を収めることとなったものの、政治体制の方の継受は、1989年の天安門事件で中断のやむなきに至り、現在も中断したままだ。
 習近平は、人民全体の縄文人もどき化に、官製メディアによる洗脳と日本行きキャンペーンでもって取り組み始めると同時に、日本を再軍備/独立させる政策も顕在的に発動し、現在に至っている。
 なお、毛沢東が後回しにした「天皇」についてだが、彼は、それが日本の天皇でなければならない、と考えていた可能性すらある、また、その後の歴代最高権力者についても同様、と思わないでもないのだが、これはさすがに妄想か。↓
 「毛沢東が・・・日本の天皇制を批判したことは無い。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%AF%9B%E6%B2%A2%E6%9D%B1
 「<それどころか、昭和>天皇<に>・・・よろしくお伝え下さい」と述べ・・・た<ことさえある。>
 <(興味深いのは、>「全世界が(日中両国に)戦々恐々としている。主にソ連と米国という両大国だ。彼らは心配でならないのだ」とも述べ<ていることだ。)>」
http://archive.fo/Mq27t
 習近平は、最高権力者になる前に、今上天皇への表敬訪問にこだわった。
https://www.news-postseven.com/archives/20150526_321676.html
●14頁
 「中国の習近平国家主席<は、今年4>月6日から7日にかけて米国のトランプ大統領と首脳会談を行った際「<朝鮮半島>は実際<のところ、支那>の一部だった(Korea・・・actually used to be a part of China)」と発言<した。>」(コラム#9202)
 参考まで:「私が、かねてより、戦後日本は<、自ら、>米国の「属国=保護領=dependency=vassal state」であ<り続けてきた>、と申し上げてきたのは、「保護国=protectorate」と申し上げるべきところ、「保護国」という言葉が最近殆ど用いられないところから、本来は異なった意味であるところの、より刺激的な「属国」・・それとほぼ同義の「保護領」という言葉も殆ど用いられない・・という言葉を用いてきた、という経緯があ<る>。
 他方、漢語たる「属国=tributary」は、本来、華夷秩序の下における、冊封された(ところの、一般的には、名を捨て実を取った)朝貢国を指・・・す。
 従属度で言えば、dependency>protectorate>tributary、という順にな<る>。
 李氏朝鮮(Joseon)の清との関係は、名目上はtributaryだが、実質はdependencyであった、ということ<だ>。」(コラム#9202)
 韓国の反日は、統一新羅の時代における日本文明から中国文明への積極的乗り換え(次のオフ会で詳述)に淵源を持つ、強固な対中事大意識、20世紀前半における日本による出血的善政がなされた朝鮮半島統治に対する逆恨み(コラム#省略)、そして地獄のような朝鮮戦争の鬱憤晴らし(コラム#9020)、の3つが重層的に絡み合っている。
 習近平による、THAAD配備を契機とする対韓経済制裁は、そんな韓国に、親日化、つまりは、自立、の最後のチャンスを与えたもの。
 韓国がこのチャンスを生かせなければ、対韓政策を180度転換させ、次第に事実上の併合へと誘導して行く、と見る。
 北朝鮮は、韓国に比し、また、考えようによっては、現在の中国よりも、親日的。
 (軍歌を含む日本の歌が韓国と違って歌われていること、日本人を拉致してまでの金賢姫等への日本語教育、藤本健二の「重用」、等。)
 また、金王朝は、日本の天皇制をモデルに創造されたもの、とも考えられるのであって、中国よりも、日本文明継受の王道を歩んでいる、という見方すらできるかも。
 その、天武・持統期に再定義された日本の天皇制(コラム#9261)との類似性に注目。
 そもそも、北朝鮮のイデオロギー的源流は東学中の親日派かも(コラム#9358。次の次のオフ会で詳述予定)。
 とまれ、中国は、一貫して、北朝鮮の核開発を支援してきたところ、これは、日本の再軍備/独立を目指す政策の一環だったと考えざるをえない。
 習近平の直截的な対日、再軍備/独立攻勢は、上記政策が効果を挙げなかった反省に立ったものだろう。
 その習近平は、金正恩には自立能力なしと判断しているはずだ。
 習近平にとっては、北朝鮮に、トランプが軍事攻撃をしかけたら、自動参戦条項のある中朝友好協力相互援助条約
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%B8%AD%E6%9C%9D%E5%8F%8B%E5%A5%BD%E5%8D%94%E5%8A%9B%E7%9B%B8%E4%BA%92%E6%8F%B4%E5%8A%A9%E6%9D%A1%E7%B4%84
に基づき北朝鮮に人民解放軍を進駐させ、そのままなし崩し的に併合へと持って行くだろうし、軍事攻撃をしかけなかったら、米国が日本に提供している拡大抑止(extended deterence)の弱体化(decoupling)による日本再軍備(含核武装)/独立の加速を見込んでいる、というウィンウィン状況。
●エピローグ
 2015年11月11日に「右」の産経、同年12月9日に「左」の朝日から、それぞれ、勉強的取材を受けた際に、以上のような話の骨子の骨子を説明し、独自取材して調査報道として記事にするように促した。
http://mixi.jp/view_bbs.pl?comm_id=2428880&id=21003190
 にもかかわらず、両紙とも、何もやっていないが、そもそも、両紙の記者達は、私に官庁不祥事問題に関する一般的なレクを受けたいとやってきたもの。
 私自身が、「右」「左」を超越しているということだが、そもそも、戦後日本の「右」「左」の区分けに何の意味もない。
 このことを念頭に置いて聞いて欲しいのだが、今次総選挙は、国賊・逆臣の自民党の「タカ」派の総帥たる安倍首相を失脚させ、その改憲構想を永久に葬り去ることができるかどうか、こそ最大の争点なのだ。
 安倍改憲は、自衛隊を永久に自衛隊のままで留め、軍隊にはしない、つまりは、日本を永久に米国の属国に留める、売国的改憲だ。
 自衛隊は、全面的な集団的自衛権を持てず、海外派兵も戦略核兵器の保持も許されず、軍法会議も軍律法廷も持てず、という意味で、軍隊では全くなく、単に、宗主国米国向けに、日本も防衛努力を少しはやっているという申し開きをするための見せ金に過ぎない。
 しかも、一回でも改憲が行われるようなことがあれば、日本では、明治憲法も現行憲法も一回も改憲されずして、大幅なものを含めた柔軟な解釈改憲が行なわれてきた、つまりは、憲法に規範性がない、という、良き伝統が断ち切られてしまうことにもなる。
 断じて、そんな改憲を許してはならない。
  
 もとより、その上、自民党に壊滅的打撃を与えることができれば、望外の喜びだ。
 ゆめ、投票先を間違えないように。
 (日本の明治憲法にも現在の日本国憲法にも規範性がないとの私の主張の詳細、或いは、本来的には日本に二大政党制はなじまないとの私の主張の説明、には立ち入らない。
 なお、平素は「支那」だが、本日は「中国」を使ったことをお断りしておく。)
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太田述正コラム#9371(2017.9.30)
<2017.9.30東京オフ会次第>
→非公開