太田述正コラム#9221(2017.7.17)
<武光誠『誰が天照大神を女神に変えたのか』を読む(その32)>(2017.10.31公開)
 「伊勢神宮の天照大神は現在、二つの役割をあわせもっと神となっている。
 一つは皇室の先祖にあたる皇祖神で、皇室の守り神としての役割である。
 そしてもう一つは、日本全国の人びとを見守る、日本という土地全体の氏神としての役割である。
 古代から続いた主要な神社も、これに似た性格をもっていた。
 諏訪大社は、諏訪の祭祀を統括する諏訪氏の守り神であると共に、諏訪盆地全体の住民の氏神とされる。
 諏訪の人びとは、現在でも御社祭(おんばしらさい)という大掛かりな祭りを6年に一度行ない、多くの住民が諏訪大社の社殿の四隅に立てる巨大な柱を選んでいる。・・・
 <さて、>斎宮は天皇の代理として天照大神に仕える皇女であるから、天皇の即位のときに「斎宮の卜定(ぼくじょう)」という新たな斎宮の選定が欠かせないものとされた。・・・
 斎宮は卜定のあと<様々な儀式を経て>足かけ三年経ってから伊勢に向かうことになる。
 斎宮が伊勢に向かう斎宮群行(ぐんこう)は、遷都にも等しい重要な儀式とされた。
 この斎宮の下で、内宮の荒木田氏、外宮の渡会氏などが伝統に従って祭祀を行なったのだ。
 伊勢神宮の重要な祭祀のときには、都から天皇の幣帛(へいはく)(捧げ物)が送られた。
 そのとき中臣氏の子孫にあたる大中臣氏の者が祭主として伊勢におもむき、荒木田氏や渡会氏にあれこれ指示を出した。
 平安時代の伊勢神宮では、<同神宮がいかに特別視されていたか分かるが、>私幣禁断の制がとられていた。
 『延喜式』(927年完成)という平安時代なかばの法令集には、次のような規定が見える。
 「皇族や貴族であっても、たやすく伊勢神宮に幣帛を捧げてはならない」
 各地の有力な神社は、奈良時代末頃から僧侶のもつさまざまな知識を取り込むために神仏習合を行なうようになった。
 平安時代後半は、石清水八幡宮(京都市八幡市)、祇園社(八坂神社、京都市)のように密教の僧侶が社僧となって経営権を握るところも現われた。
 しかし伊勢神宮はかたくなに古い伝統を守り続けて、仏教の要素をとり入れようとしなかった。
 江戸時代の伊勢神宮は、僧尼禁制の法を守り続け、原則として僧尼を神社の拝殿(神様を拝むところ)に近付けなかった。・・・
 俳人の松尾芭蕉は僧侶ではないが頭を丸めていたために、伊勢を訪ねたときに僧尼拝所<という遠く>から天照大神を拝<まざるをえなかった>。・・・
 平安時代なかば頃までの伊勢神宮は、朝廷の庇護のもとにおかれていた。
 伊勢国にある13の郡の中で神郡とされた渡会、多気、飯野の3群・・・の租税がすべて伊勢神宮に与えられてきたのだ。
 ところが郡司の支配が崩れて租税が思うように入らなくなったために、伊勢神宮<は>東国に荘園を設けるようになっていった。
 伊勢神宮は権禰宜(ごんのねぎ)という中級の神職を東国に派遣して租税を集めさせたが、かれらは年貢を滞りなく集めるために、あちこちで伊勢神宮の神徳を説いてまわった。
 このような布教によって、それまで「遠くの縁遠い偉い神」であった天照大神が、人びとの身近なものになっていった。 
 <また、>鎌倉時代に熊野大社<(注74)>が、御師(おし)と呼ばれる修験者(しゅげんじゃ)を各地に派遣して布教に力を入れるようになった。
 (注74)これでは、現在の島根県松江市にある熊野大社
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%86%8A%E9%87%8E%E5%A4%A7%E7%A4%BE
のことになってしまう。
 武光は、熊野三山↓、または、熊野本宮大社、と表記すべきだった。
 「神仏習合により、熊野本宮大社の主祭神の家都御子神(けつみこのかみ)または家都美御子神(けつみこのかみ)は阿弥陀如来、・・・とされた。・・・平安時代後期、阿弥陀信仰が強まり浄土教が盛んになってくる中で、熊野の地は浄土と見なされるようになった。院政期には歴代の上皇の参詣が頻繁に行なわれ、後白河院の参詣は34回に及んだ。・・・
 ピークは過ぎたものの盛んであった熊野信仰も江戸時代後期の紀州藩による神仏分離政策で布教をしてきた聖や山伏、熊野比丘尼の活動を規制したため衰退し、明治の神仏分離令により衰退が決定的となった。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%86%8A%E9%87%8E%E4%B8%89%E5%B1%B1
 そのため平安時代末には皇族、公家など一部の有力者のものであった熊野詣(もうで)に多くの庶民が加わるようになった。
 ・・・熊野大社の盛況を知った伊勢神宮も、自領の荘園だけでなく全国規模で大掛かりな布教をくり広げようと<、自らの御師を全国各地に派遣した>。・・・
 御師は、・・・伊勢神宮のお札を配った。・・・
 <こうして、>伊勢神宮への参詣は、鎌倉時代から盛んになっていった。
 遷宮が行なわれる年には、10万人の参拝者が伊勢を訪れたという記録がある。
⇒伊勢神宮において、歴史の古さや正統性に対する自負の念があったと思われるところ、朝廷による庇護が希薄化した時点で、神仏分離という「製品」コンセプトを掲げつつ、神仏習合の熊野三山のマーケティング戦略を借用した、というセンスはなかなかのものですね。
 そのおかげで、江戸時代における、「神仏分離・・・の動きは早くは中世から見られるが、一般には江戸時代中期後期以後の儒教や国学や復古神道に伴うものを指し、・・・岡山藩や水戸藩、淀藩、会津藩等の儒教が興隆した藩を中心に神仏分離政策が行なわれた。出雲大社でも17世紀に神仏分離が行われている。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%A5%9E%E4%BB%8F%E5%88%86%E9%9B%A2
という状況にも「恵まれ」、以下にも出てくるように、伊勢神宮は集客力日本一の「宗教」名所の座を揺るぎないものにした、というわけです。(太田)
 このような布教の盛行の中で、伊勢神宮に天照大神の信仰を論理的に体系づけようとする動きが起こってきた。・・・
 人間が本来もつ「清く明るい心」、「正しく直(すなお)な心」を神の心に通じるものと説い<たのだ。>・・・
⇒神道の基本は、(この点は武光も異存はないと思いますが、)もともと縄文性謳歌儀典であるところ、私見では、この縄文性の核心は人間主義なのですから、天照大神を持ち出すまでもなく、神道の「教義」は、「人は本来人間主義者なり」的なものにならざるをえないのであって、そんなものは、およそ教義の名に値しないのです。(太田)
 江戸時代に・・・庶民のお伊勢参りが盛行し、天照大神や天皇がより人びとに身近なものとなっていった。
 江戸時代末に伊勢信仰が尊王論と結び付いて、多くの人が「日本に万一のことがあれば将軍より偉い天皇が助けてくれる」と考えるようになった。
 明治維新直前の慶応3年(1867)夏に、庶民が大挙して踊りながら伊勢神宮に押し寄せる「ええじゃないか」が起こった。
 これは、天皇制時の復活を求める庶民の声を表現したものとみられた。
 そのため「ええじゃないか」を知った徳川慶喜は、政権の朝廷への返上を決意し、大政奉還にふみ切った。
 この一事だけをみても、天照大神信仰が日本史に大きな影響を与えたものであることがわかる。」(201~204、206~209)
⇒武光は、近年に登場した東海発祥説・・伊勢神宮の御札降りがあり、その御礼に伊勢神宮参拝をするお蔭参り(注75)が行なわれ、それが全国で、その地の神社の御札降りに伴うええじゃないかを誘発した、とする・・
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%81%88%E3%81%88%E3%81%98%E3%82%83%E3%81%AA%E3%81%84%E3%81%8B
に拠っているようですが、そのあたりを説明すべきでした。
 (注75)「お蔭参りとは、お札が降るなど神異のうわさをきっかけにして庶民が奉公先から抜け出し、伊勢参りに出かける人が急増する現象のことで、江戸時代には元和3年(1617年)、慶安年間(1648年~1652年)、宝永2年(1705年)、明和8年(1771年)、文政13年・天保元年(1830年)というように約60年周期で自然発生的に繰り返された。いずれも期間は3箇月から5箇月で終わっている。明和のお陰参りの記録では300~400万人が伊勢に殺到した。十代将軍徳川家治の時代であり、享保年間の日本の人口統計では当時の人口は約2200万人であった。文政13年のお蔭参りは3箇月で約500万人が伊勢に押し掛けたと記されている。お蔭参りに参加する者に対しては、大商人が・・・店舗や屋敷の解放、弁当・草鞋の配布を行った。」(上掲)
 いずれにせよ、「「ええじゃないか」を知った徳川慶喜は、政権の朝廷への返上を決意し、大政奉還にふみ切った。」の典拠はない、と見ました。(太田)
3 終わりに
 お世辞にも出来の良い本とは言えませんでしたが、武光のこの本を読んだおかげで、「天照大神信仰<、というか、伊勢神宮(太田)、>が日本史に大きな影響を与えたものであること」が身に染みました。
 このことは、とりもなおさず、天皇の存在が、日本史において決定的に大きいことの傍証になっている、ということも・・。
(完)