太田述正コラム#9229(2017.7.21)
<改めて米独立革命について(第II部)(その11)>(2017.11.4公開)
 「米独立革命の時点では、ボストンの男性の納税者達の約11%が奴隷達を所有していた。
 コプリー一家は何人も・・。
 そして、南に行くにつれて、その数は増えるばかりだった。・・・
 1772年に、イギリスの最上級裁判所は、イギリスに到着した、植民地の奴隷達は自由になる、と<読める>、漠然とした示唆を行った。・・・
 それは、既に代表なき課税によって危機感を抱いていた、植民地人達にとって、大英帝国の権力を、一層の脅威として表出させた。
 結局のところ、英本国議会は、植民地人達に課税できるのだから、彼らの奴隷達だって自由にするかもしれない、と。」(A)
 <すなわち、>「南部人達は、もっぱら、奴隷にされたアフリカ人達という形の彼らの財産を守るために米独立革命に加わったわけだが、「にわかに信じられないことに、奴隷制が持続しているのは英国のせいだとした」ことを、著者は示唆している。
 <そもそも、>愛郷者達の自由についての言説は極めて限定的なものだった。
 彼らは、「白人達の自由を守りつつ、奴隷化された黒人達に対する彼らの支配を主張した」のだから・・。
 <それに、>時々、愛郷者達は余り愛郷的とさえ言えなかった。
 植民地軍が、1775年に、ケベックを攻略しようとして<、それに失敗し、>降伏した後、捕虜になった愛郷者達の4分の1が敵側に寝返り、英軍に加わった」ときているのだから・・。
 <しかし、>時々、著者は、皮肉と矛盾を強調するあまり、アナクロニズムに堕してしまっている。
 植民地諸議会が、女性達、自由な黒人達、及び、無産白人男性達、に投票権を与えていなかったことから、彼は、「英領北米植民地は民主主義を探す場所としてはふさわしくなかった」、と結論付ける。
 しかし、果たして、18世紀において、民主主義を探す場所として、よりふさわしい場所があっただろうか。
 参政権に対する諸制限にもかかわらず、これらの諸植民地は、それでもなお、当時の世界のの中で、最も民主的な諸政府を持っていたのだ。」(a)
 「著者は、女性達が愛郷者的大義を救うのを助けたと描写する一方で、黒人たる穂首人達はそれをもう少しで破壊するところだった、と示唆している。
 1775年に、黒人達は50万人を数え、英領北米植民地の総人口の20%を占めていた。
 彼らの99%が奴隷にされていた。
 抜け目なく、ヴァージニアの親英派の総督のダンモア(Dunmore)卿<(注16)>は、英本国のために戦った奴隷達には誰でも自由を与えることにした。
 (注16)「第4代ダンモア伯ジョン・マーレイ(John Murray, 4th Earl of Dunmore、1732年~1809年・・・)は、<英国>の貴族(スコットランド貴族)であり、植民地総督・・・。・・・
 <ヴァ>ージニア植民地最後の総督・・・1761年から1774年と1776年から1790年にはスコットランドの貴族代表議員として<英>貴族院議員を務めた。・・・1770年から1771年まで<英>領ニューヨーク植民地総督を務めた。しかし1770年に就任してから間もなく、<ヴァ>ージニア植民地総督の・・・男爵・・・が死去し、・・・その後任に指名された。・・・  1775年11月7日に「ダンモア卿の宣言」、または「ダンモア卿の解放提案」と呼ばれるものを発した。これは愛国者の主人のもとを離れ、<英本国>側についた奴隷に自由を与えるというものだった。この宣言は北<米>では初の大量奴隷解放だった。・・・  ダンモアは<ヴァ>ージニアの植民地を取り返せないと認識すると、1776年7月に<英国>に戻った。<米>国の独立が認められた1783年までは<ヴァ>ージニア植民地総督の位に在り続けた。1787年から1796年、ダンモアはバハマ植民地の総督を務めた。」 https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%B8%E3%83%A7%E3%83%B3%E3%83%BB%E3%83%9E%E3%83%BC%E3%83%AC%E3%82%A4_(%E7%AC%AC4%E4%BB%A3%E3%83%80%E3%83%B3%E3%83%A2%E3%82%A2%E4%BC%AF%E7%88%B5)
 結局、独立戦争が終わった時点で、約30,000人ないし40,000人の奴隷達が英本国諸陣営へと逃走していた。
 著者が強調するように、奴隷達に武器を与えたことが、旋回点となった。
 ダンモアの宣言までは、南部人達は愛郷者的大義にはどっちつかずの気持ちだった。
 しかし、その後では、南部の白人達は、英本国が、自分達の最も大切にしている諸自由・・諸財産保有の自由・・を廃止した、と感じた。
 最もリベラルな意味で、彼らは、第三者の奴隷状態を維持する自由のために戦ったのだ。
(続く)