太田述正コラム#9309(2017.8.30)
<進化論と米北部(その6)>(2017.12.13公開)
 すなわち、ダーウィンは、人間達と猿達、そして、人間達と神、の問題(business)は、概ね、他の人々が推論するのに任せた。
 このスタイルは、『種の起源』の最も議論を紛糾させる言外の意味群の一つをごまかすのに役に立った。
 というのも、ダーウィンの諸理論は、他の何物よりも、19世紀の米国で共通に抱かれていたところの、人類が容赦なく改善しつつある、つまり、神の姿に似せて創造された人間がより神に接近しつつある、という前提(assumption)に挑戦したからだ。
 仮に、進化・・この言葉をダーウィンは『種の起源』の中では余り使っていない・・が、神の(divine)意思の介入と保護なしに無作為に起きるのだとすれば、結局のところ、自然淘汰は、変化それ自体が単にいい方向だけでなく、悪い方向にも起こりうることになるわけだ。
 この世界が、かくも素晴らしく進化が可能である以上、全く同様に、退化だって可能であるはずなわけだ。
 これは悩ましい観念だった。
 しかし、それは、潜在的には解放的な観念でもあった。
 他の人はともかく、科学者であると同時に、その多くの同僚達と同様、深い宗教的信仰を抱いていたところの、エイサ・グレイは、このダーウィンの形而(上)学((meta)physics)のこの要素に関して、親切な合成的な(synthetic)見解を採用した。
 この植物学者は、ダーウィンの理論を、彼の同時代人達の若干がそうしたように、神の創造的性格(agency)への直接的な挑戦としてではなく、この世界の上にその意思を働かせている神(devine)の力の科学的説明、として読んだのだ。
 自然淘汰は、単なる一つのメカニズムであって、その方法によるところの、神(divine)の開示である、とグレイは考えたのだ。」(E)
 「隠された物語は、・・・『種の起源』が、直ちに、画期的な変化と予期せぬ余震群を生み出した、というものだ、と・・・著者はこの本の中で記している。・・・
 「論理的結論にまで持って行った」暁において、適者生存の観念は、「人々は神の姿にに似せて創造された」という観念を破壊した(demolished)のだった。」(A)
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[キリスト教徒以外のアブラハム系宗教教徒と進化論]
・イスラム教徒
 「保守的なイスラム教でも進化論は否定される。
 実態は変態に近いと言えるポケットモンスターの進化もハラーム扱いを受け、カードを交換して収集するポケモンカードゲームの遊び方がイスラムで禁じられる賭博にあたるとされたことも併せて、保守的なイスラム諸国ではポケモンのゲームやグッズの販売制限が行われるに至った。
 トルコのエルドアン政権は2017年、公立学校の義務教育課程で進化論を教えないことを決めた。「進化論の理解には哲学的な素養が必要で、児童・生徒には難し過ぎる」との理由を挙げているが、世俗主義者からは批判が出ている。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%80%B2%E5%8C%96%E8%AB%96
・ユダヤ教徒
 ユダヤ教徒の大部分は、進化論が、経典で説かれている、事実よりも倫理を重視するところの、ユダヤ教信仰と抵触するとは考えていない。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%80%B2%E5%8C%96%E8%AB%96
⇒進化論との関わりだけをとっても、アブラハム系3宗教は、できた順ができのいい順、と言いたくなる。
 或いは、宗祖のできのよさが、ユダヤ人の集団知>パウロ>ムハンマド、だったため、かも。
 (キリスト教、就中、プロテスタンティズムと進化論の関係については、その一地域における一側面が、本シリーズで掘り下げられているわけだ。)(太田)
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(続く)