太田述正コラム#9337(2017.9.13)
<アングロサクソンと仏教–米国篇(その2)>(2017.12.27公開)
2 アングロサクソンと仏教–米国篇
 (1)序
 「著者のこの本は、瞑想が、人々が、より幸せな諸生活を送ることに資するだけでなく、根本的に真実であるところの世界観を<持つのを>促進すること、を示すと請け合っている。
 著者は、仏教の真実は、あなたを自由にし、かつ、この自由が<あなたに>真実を感知せしめるであろうことを信じている。」(A)
 「著者は、仏教は、それが役に立ち、健康維持に資する(helpful and therapeutic)ことに加えて、我々の習慣的諸思考と諸欲求への諸洞察を提供し、それらをどう解決(fix)すべきかを示してくれる、と考えている。
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[瞑想を巡る用語のおさらい]
 「チベット仏教では、<釈迦が悟りを開くまでの過程に忠実に、>止<行=サマタ瞑想>を先に実践し・・・意識が完全に固定され動かなくなる定(じょう、サマーディ)に至り、三昧(さんまい)の境地に・・・至ってから、観<行=ヴィパッサナー瞑想>の修行に入る。・・・
 対して、[20世紀にミャンマーで生まれ、]近年で特に欧米で広く広まったヴィパッサナー(観)<瞑想>では、この念の対象を40程のサマタの伝統的な対象物でなく、最初から物事の変化に向けるため、念を深めて定に至っても三昧の境地に入ることはできない。また、念の対象を常に変化する現象に向けるため、変化に連続的に「気づく」という意味となるが、サマタの場合は対象物が固定されているので「気に留める」あるいは「意識を固定する」という意味で「念ずる」が適切な訳となる。念の途中で「気づく」たびに三昧から抜けてしまうという意味では念の訳として「気づく」は適さない。ヴィパッサナーではサティとは、「今の瞬間に生じる、あらゆる事柄に注意を向けて、中立的によく観察し、今・ここに気づいている」ことであるとされる。この様な観行<(かんぎょう)>に<より至>る境地と止行<(しぎょう)>により至る境地の違いが現れる。」
 (↑「難解」だが、何度も読み返すと次第に理解できてくる。)
 ちなみに、サティ(sati)=念=気づき=マインドフルネス(mindfulness)、だ。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%B5%E3%83%86%E3%82%A3_(%E4%BB%8F%E6%95%99)
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%B4%E3%82%A3%E3%83%91%E3%83%83%E3%82%B5%E3%83%8A%E3%83%BC%E7%9E%91%E6%83%B3 ([]内)
 私は、「サマタ瞑想」はそのまま用い、「ヴィパッサナー瞑想」は舌を噛みそうなので「念的瞑想」と言い換えてきた(コラム#省略)が、それぞれ、「止行」、「観行」、という伝統的な訳語
http://j-robert.hatenablog.com/entry/2016/11/24/190531
を充てた方が、より適切だったかもしれない。
 とまれ、当面は、「サマタ瞑想」、「念的瞑想」、で行こうと思う。
 付言しておく。
 北伝したところの、瞑想に係る釈迦の教えは、その中から念的瞑想が欠落したものだったが、それが仏教であることに争いはない。
 他方、南伝したところの、瞑想に係る釈迦の教えの中にはサマタ瞑想と念的瞑想双方が含まれていて、それもまた仏教であることに争いはないが、私は、南伝仏教は、形や程度こそ違え、ヒンドゥー教と混淆してしまっている、と指摘してきた(コラム#E省略)。
 だから、瞑想に係る釈迦の教えが全て伝わり、かつ他の宗教と混淆していない、という意味での真正な仏教はチベット仏教だけだ、というのが私の考えであるわけだ(コラム#7867等)。
 そして、このことこそが、(つい最近まで亡命チベット政府の事実上の首班であったこと、そのことと関連してノーベル平和賞を受賞したことも大きいとはいえ、)ダライ・ラマが、この何十年かにわたって、世界で最も著名な仏僧であり続けてきた最大の理由だと見ている次第だ。 
 ところで、本シリーズで取り上げた本の内容ともからんでくるのだが、私は、サマタ瞑想抜きの念的瞑想だけ、でも、真正な仏教と言えるのだろうか、いや、最低でも仏教とは言えるのだろうか、また、「ミャンマーで生まれ、]近年で特に欧米で広く広まった」瞑想=念的瞑想、と言えるのだろうか、という、二つの基本的な疑問を以前から抱いていて、まだ、私なりの解答に到達していないことを申し添えておきたい。
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 仏教徒たること、すなわち、要は(simply)ヴィパッサナー<瞑想>ないし「洞察(insight)」瞑想(meditation)を実践すること、は、生きていることについてよりよい気持ちを持たせてくれる、と著者は信じ、彼は、どうしてあなたはそれができるか、また、どうしてそうなるのか、と示す。」(D)
⇒要するに、この本は、個人主義的功利主義に立脚したセルフ・セラピー本であるわけです。
 そんなものと仏教とは、いやんや、そんなものと釈迦の教えとは、似て非なるものであって、殆ど何の関係もないのではないでしょうか。
 とはいえ、ここで打ち切ることなく、先に進むことにしましょう。(太田)
(続く)