太田述正コラム#9399(2017.10.14)
<アングロサクソンと仏教–英国篇(その3)>(2018.1.27公開)
 「著者は、パーリ語経典等の初期の諸典拠の、自覚をもった、歴史を踏まえた、そして、言語学っぽい趣の分析を主として通じて、彼の仏教についてのヴィジョンを主張する、持続的かつ真剣な試みを行っている。・・・
 この本のタイトルは構文解析の要がある。
 「仏教」は、著者にとっては、釈迦の逝去の後にアジアの大部分へ、そして今や欧米へ到着したところの、神話群、教義群、儀典群、そして、制度群、その形而上学と道徳群を持った、宗教を意味している。・・・
 この本のタイトルは、<むしろ、>仏教以前(Before Buddhism)とした方が良かったかもしれない。
 この本は、その創建者の元々のダルマを回復しようとするものだからだ。・・・
 著者にとっては、その答えは、釈迦の教えの中の「他の彷徨者達たる、同時期の、ジャイナ教の僧、ないし、ブラフマンたる僧侶、が言ったとしてもおかしくないもので彼に帰されているものを除外すると共に、最も他の区別されかつ独自のものとして屹立している…」諸要素を突き止めなければならない、というものだった。
 かくして、脇にどけるべきは、釈迦の時代にありふれていた(common)、過去や未来の諸生、ないし、解脱(liberation)の先験的本性、に関する全ての形而上学的主張である、と。
 残されるのは、(懐疑的かつ実際的な)二つの主要な諸声(voices)<(注3)>、と、四つの中心的諸観念だ。
 (注3)これについては、調べがつかなかった。
 すなわち、此縁性(conditionality)<(注4)>の原則、四諦(fourfold task)<(注5)>(四聖諦の1ヴァージョン)の実践、正覚(mindful awareness)<(注6)>の見方、自力(power of self-reliance)<(注7)>の力、だ。
 (注4)しえんしょう。[「縁起」ともいう。]「此縁性の出典としてよく持ち出されるのが、パーリ仏典経蔵小部『自説経』(ウダーナ)の冒頭等に表れる、以下の表現である。
 此(これ)が有れば彼(かれ)が有り、此(これ)が無ければ彼(かれ)が無い。此(これ)が生ずれば彼(かれ)が生じ、此(これ)が滅すれば彼(かれ)が滅す。
 このように、「此」に縁って「彼」が規定され、有無生滅する関係を表しているので、これを此縁性と呼ぶ。
 この「此」とは煩悩(あるいは、それに無自覚な無明の状態)を指しており、「彼」とは苦を指す。したがって、上記の命題は、
1.「「煩悩」(無明)が有れば、「苦」が有り」
2.「「煩悩」(無明)が無ければ、「苦」が無い」
3.「「煩悩」(無明)が生じれば、「苦」が生じ」
4.「「煩悩」(無明)が滅すれば、「苦」が滅す」
と言い換えることができる。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%AD%A4%E7%B8%81%E6%80%A7
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%B8%81%E8%B5%B7 ([]内)
 (注5)したい=ししょうたい=4つの・聖なる・真理(諦)。「仏教が説く4種の基本的な真理。苦諦、集諦、滅諦、道諦のこと。」それぞれが、「迷いのこの世は一切が苦であるという真実」、「苦の原因は煩悩・妄執、求めて飽かない愛執であるという真実」、「苦の原因の滅という真実。無常の世を超え、執着を断つことが、苦しみを滅した悟りの境地であるということ」、「悟りに導く実践という真実。悟りに至るためには八正道によるべきであるということ」を意味する。
 そして、「四諦はブッダが最初の説法で説いた<ことの一つ>とされている。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%9B%9B%E8%AB%A6
 八正道(はっしょうどう)とは、「正見、正思惟、正語、正業、正命、正精進、正念、正定のこと・・・八正道は全て正見に納まる。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%85%AB%E6%AD%A3%E9%81%93
 正見の中の十事正見は、以下の通りだ。「
1.布施の果報はある
2.大規模な献供に果報はある
3.小規模な献供に果報はある
4.善悪の行為に果報がある
5.(善悪の業の対象としての)母は存在する(母を敬う行為に良い結果があるなど)(巴: atthi mātā)
6.(善悪の業の対象としての)父は存在する(父を敬う行為に良い結果があるなど)(巴: atthi pitā)
7.化生によって生まれる衆生は存在する
8.現世は存在する
9.来世は存在する
10.この世において、正しい道を歩み、正しく行じ、自らの智慧によって今世と他世を悟り、(それを他者に)説く沙門、バラモンは存在する。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%85%AB%E6%AD%A3%E9%81%93 ★
 布施だが、「大智度論など、伝統的には、次のような種類が挙げられている。財施とは、金銭や衣服食料などの財を施すこと。法施とは、仏の教えを説くこと。
 無畏施とは、災難などに遭っている者を慰めてその恐怖心を除くこと。
 その他に、雑宝蔵経に説かれる財物を損なわない七つの布施として、次の行いが説かれる。布施波羅蜜では「無財の七施」という。
1.眼施:好ましい眼差しで見る。
2.和顔施(和顏悦色施):笑顔を見せること。
3.言辞施:粗暴でない、柔らかい言葉遣いをすること。
4.身施:立って迎えて礼拝する。身体奉仕。
5.心施:和と善の心で、深い供養を行うこと。相手に共振できる柔らかな心。
6.床座施:座る場所を譲ること
7.房舍施:家屋の中で自由に、行・来・座・臥を得させること。宿を提供すること。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%B8%83%E6%96%BD
 (注6)しょうがく。「さとり、仏のさとり、正しいさとりのこと。また、宇宙の大真理をさとること。真理をさとった人、仏、如来をも意味する。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%AD%A3%E8%A6%9A
 (注7)「自己の智慧・能力などを自力といい、それ以外の仏・菩薩の慈悲などを他力という。自分だけで開悟しようとする教えを自力門といい、自己を凡夫と自覚して仏・菩薩の慈悲力を頼んで開悟しようとする教えを他力門という。・・・他力門は深い自己凝視の上に開かれるものであるから、一般に他力を何もしないことのようにいうのは誤り。」http://www.weblio.jp/content/%E8%87%AA%E5%8A%9B
⇒★の訳とは違って、スダンマ(Sudahmma)長老という人が、(atthi dinnaṃを「お布施の功徳がある」と訳すのはほぼ同じですが、)atthi yiṭṭhaṃを「尊敬すべき人に尊敬すると功徳がある」、atthi hutaṃを、「供養すると功徳がある」、と訳しています。そして、「お布施というのは生きている生命に与えること、供養というのは、テーラワーダ<(南伝仏教)>では正自覚者やそれを現すもの、菩提樹などにものをお供えすることです。」と解説しています。
http://fujisugatavihara.blogspot.jp/2017/08/blog-post.html
 訳として、こっちの方が腑に落ちると思いませんか。
 (★の筆者自身や、ネット上で見かける、これをそのままコピペしている日本の「仏教通」の皆さんが、どうしてこんな訳はおかしいと思わないのか、私には解せません。)
 要するに、私の言葉で言えば、釈迦が最初に語った考えの一つは、悟りの手段は、八正道であって、とりわけその中の正見に凝縮されているのであり、それを更に要約すれば、人間主義的行為を行うこと、人間主義者を尊敬すること、に尽きる、というものであったわけです。
 (「化生によって生まれる衆生は存在する」というのは、この世には非人間主義者が存在する、ということでしょう。)
 大智度論や雑宝蔵経が例示している人間主義的行為は、連日のように中共の主要メディアが中共人民に紹介している日本人の行為を彷彿とさせますね。
 中共当局は、(恐らく間違いなく、仏教についての独自の組織的研究を踏まえ、到達したところの、この著者とほぼ同じ釈迦の考え観に立脚して、)これらの日本人の行為を尊敬せよ、これらを真似よ、と、人民に諭し続けているわけです。
 ここで、蛇足的感想です。
 今まで、悟り直後の釈迦の言だという触れ込みのものについてさえ、まともに受け止める気持ちにならなかった、仏教の基本的教義に、今回、初めて、人間主義の観点から向き合ってみた結果は、上述したように驚くべきものでした。
 どうして、もっと早くから向き合わなかったのか、反省することしきりです。(太田)
 これらは、我々自身のポスト信仰(post-credal)時代におけるところの、仏教の前のダルマへの諸鍵である、と著者は主張する。・・・
(続く)