太田述正コラム#9447(2017.11.7)
<定住・農業・国家(その18)>(2018.2.20公開)
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[現存狩猟採集社会研究の草分け]
 このコラムでは、現存狩猟採集社会研究の草分けとして、リチャード・バーズヘイ・リー(Richard Borshay Lee)とマーシャル・サーリンズ(Marshall Sahlins)が紹介されているところ、前者については既に取り上げたので、ここで後者を取り上げておきたい。
 「1930年にイリノイ州シカゴにて生まれる。ミシガン大学にてレズリー・ホワイトの指導の下、学士号および修士号を取得の後、コロンビア大学においてカール・ポランニーと<ら>の学問的影響を受けて学び、1954年に同大より博士号を取得。その後、・・・教師としてミシガン大学に戻り、1960年代にはベトナム戦争に反対する政治活動を開始する。1960年代後半にはパリで二年間を過ごし、当地の学問的環境(とりわけクロード・レヴィ=ストロースの業績)に親しむと同時に、五月革命の学生蜂起を目の当たりにする。1973年、彼が現在も勤務するシカゴ大学へ移る。・・・
 彼の初期の仕事は〈実質主義者として、形式主義的な〉「合理的経済人」の概念を批判し、経済〈生活〉は〈財を生産し分配することに係る〉文化的〈ルール〉によ〈って規律〉される・・・〈と〉の〈主張を行〉った〈ところの、’Stone Age Economics’(1972年)だった。〉・・・
 90年代の後半には、サーリンズはオベーセーカラ<(注34)>との間で、1779年のハワイにおけるキャプテン・クックの死の細部をめぐって白熱した議論を繰り広げた<(注35)>。議論の要点は、現地の人々の理性をどう解釈するかである。オベーセーカラの主張は、現地の人々は本質的には西洋人と同様の考え方をしているにもかかわらず、いずれの議論も彼らを非理性的で非文明的なものとして描写しようとし、その対象物としてのみ認識しているというものであった。反対に、サーリンズは西洋的思考様式の批判者であり、現地の文化は西欧のそれとは区別されるものであり、かつ西洋文化と等価値をもつものである〔・・、そして、文化によって理性(rationality)の形が異なる場合がある・・〕と主張した。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%9E%E3%83%BC%E3%82%B7%E3%83%A3%E3%83%AB%E3%83%BB%E3%82%B5%E3%83%BC%E3%83%AA%E3%83%B3%E3%82%BA
https://en.wikipedia.org/wiki/Marshall_Sahlins (〈〉内は、上掲邦語ウィキペディアの記述をこの英語ウィキペディアの記述によって修正したもの。)
https://en.wikipedia.org/wiki/Gananath_Obeyesekere (〔〕内)
 (注34)ガナナート・オベーセーカラ(Gananath Obeyesekere)。セイロン大卒、米ワシントン大収支、博士、プリンストン大人類学名誉教授。(上掲)
 (注35)オベーセーカラが、1992年に上梓した’The Apotheosis of Captain Cook’の中で、サーリンズ批判を行ったことから始まった論争。
https://en.wikipedia.org/wiki/Sahlins%E2%80%93Obeyesekere_debate 
 サーリンズは、要するに文明等価論の立場に立っているらしいところ、これは、私、や、イギリス人たるホイッグ史観者、のような文明階層論者・・但し、私は日本文明を、ホイッグ史観者達はアングロサクソン文明を、それぞれ至上視する・・からすれば誤りだ。
 (オベーセーカラの主張は、この記述だけで判断するのは更に困難だが、仮に、異なった文明の存在を認めないという主張であれば、度し難い誤りだ、ということになろう。)
 このコラムの筆者はスズマン(Suzman。コラム#9409)だが、スズマンら、英米の最近の人類学者達は、文明階層論の立場に立って、狩猟採集文明を至上視しているようにも見えるところ、仮にそうだとすれば、非定住生活そのものから生じるストレスの大きさ等を無視したナンセンスな主張であると言わざるをえないが、そうではなく、単に、戦争や抑圧を内包しているところの、「近代」的なもの、ないし、欧米的なもの、より端的には、その核心たるアングロサクソン文明、の、(私の言葉で言う)非人間主義性への批判を、あえて狩猟採集文明を理想化することによって試みている、と受け止めたいところだ。
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 「・・・<かつての狩猟採集社会においては、>社会的諸階統や搾取的男女諸関係の発展なしに、かつまた、環境破壊なしに、週20時間労働・・・が達成されていた。・・・
⇒なんだ、週15時間労働じゃなかったのか、などという無粋なことは言わないことにしましょう。(太田)
 <彼らは、>沢山生産するよりも少ない欲望しか持たず、諸余剰を蓄積することなく、その日暮らしをしていた・・・
 <他方、>人口を抑制するか食糧生産を増大するか、に関して、我々は後者を選択し、その結果、飢餓、戦争、そして専制、がもたらされたのだ。・・・
 <かつて>狩猟採集は唯一の生産モードであり、それが約200万年続いた。・・・
⇒現代人類以外にまで話を広げないで欲しかったですね。
 なぜなら、動物一般は、当然のことながら、「狩猟採集」生活を送っているのですから・・。(太田)
 それに対し、農業の時代・・今ではアントロポセンと次第に多く言及されるようになっている・・は、今から12,000年前に始まったところ、そのわずか100分の1でしかない。
 考古学的証拠が示唆しているのは、農業革命後の最初の数千年は、人間の身長と栄養水準の低下、及び、人々にしばしば家畜達から移された、疾病による死者数の増大、を伴った。・・・
 <今では、>コイサン達の多くは、諸スラム街で諸施し物で生計を立て、狩猟ならぬアルコール飲料で彼らの精神世界へのアクセスを提供されている。
 <彼らに>とどめを刺したのが携帯電話の登場であり、その前の諸技術を飛び越え、地域的知識を掘り崩すと共に、アルコール飲料同様に中毒性があり、しかもアルコール飲料よりも安いことから、インターネットの諸夢の世界に、若者達の気を逸らしてしまっている。・・・」
https://www.ft.com/content/d0dd56be-c024-11e7-b8a3-38a6e068f464
(11月4日アクセス)(←スズマンの新著の書評)
(完)