太田述正コラム#9451(2017.11.9)
<進化論と米北部(その15)>(2018.2.22公開)
・ブレース
 しかし、他の者達は、ダーウィン<の説>を、黒人達と白人達とを、永続的に進歩しつつあるところの、同じ種の成員達であることを意味するもの、と解釈した。
 この本の最初に出てくる晩餐会の4年後、チャールズ・ローリング・ブレースは、『旧世界の諸人種(The Races of the Old World)』を上梓した。
 これは、黒人達が「他の人間家族達と根源的に異なるわけではなく、彼らに比べてメンタル面で劣っているわけですらない」こを証明しようとしたところの、とりとめのない、民族誌学(ethnography)の著作だった。
 しかし、著者が示すように、ブレースは、両人種からなる<米北部>社会に生きることを想定することはできなかった。
 極めて非ダーウィン的な観念だが、黒人達は温かい諸気候に永遠に適応的であることから、奴隷制が終わった後も、南部に留まっているべきだ、と、彼は執拗に主張したのだ。・・・
⇒ブレースは、それでも、黒人達を、米国から、つまりは、その南部からも、追放すべきだと考えていたリンカーン(コラム#省略)に比べれば、人種主義度は希薄だった、と言えるでしょうね。(太田)
・オルコット
 以上は、著者が焦点を当てているところの、東海岸の知識人達の小さな集団の間でさえ、この本が普遍的に受容された、というわけではないことを意味している。
 『種の起源』の初期の読者達の多くは、ダーウィンの諸発見をにべもなく拒絶したことを、著者は示唆している。
 彼らのうちの一人である、(ルイーザ・メイの父親にして熱心な超絶主義者たる、)ブロンソン・オルコット・・・は、その実践が神の意志の説明として失敗しているとの理由から、科学一般に不信感を抱いていた。
 <そして、>ダーウィンの自然学者としての精巧さにもかかわらず、彼は、ダーウィンが、「精神の貧困(destitute of spirit)」な世界の機能ぶりについてのヴィジョンを提示した、と見なしていた。
 それは、同僚たる哲学者に関してオルコットが考え得る最悪の諸侮辱の一つだった。」(E)
 (4)結論
 究極的には、マサチューセッツ及びそれ以遠のダーウィンの従者達でさえ、進化の諸原理を適用するにあたって、支配的な宗教哲学を避けて通るわけにはいかなったのだ。
 自然淘汰が単なる偶然の結果であるとの観念を完全に受容することができず、彼らは、全てを動かし始めた原初的な力としてか、変化が自身の命令(direction)に従うようにする監視者(monitor)として、方程式の中に神を挿入した。
 こうして、ダーウィンの本は、科学的観察に立脚した単なる指示(instruction)マニュアルに堕してしまったのだ。・・・
 今日でも、米国人達の40%超が、純粋な創造論・・神が人間達を現在の姿でもって10,000年前に創造した・・を信じている。
 その他の20%が、神が進化過程の全ての段階を導いてきた(has guided)、と信じている。<(注17)>
 (注17)さしずめ、「純粋な創造論」に、若い地球説、断絶説、漸進的創造説が含まれ、「神は原初的な力」とするのが進化的創造論、「神は監視者」とするのがインテリジェント・デザイン、といったところか。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%89%B5%E9%80%A0%E8%AB%96
 <米国では、>信仰が事実を征服し続けている、というわけだ。」(F)
⇒米国の、この40%プラス20%である60%の人々は残り40%の人々に比べて投票率が低く、大統領選等の投票総数中では50%前後を占めてきたと考えられ、その結果、共和党の大統領等と民主党の大統領等の選出率も概ね半々で推移してきているわけですが、これは、投票総数の約半分が「まともな」人々であることを意味しません。
 譬えが適切かどうかはともかく、自民党の「タカ」派が「ハト」派と「喜んで」同じ党内で共存してきたのは「タカ」が実は「似非タカ」であったからこそであるところ、米国の「まともな」人々が「いかれた」人々と「喜んで」同じ国内で共存してきたのも似たようなものであり、「まともな」人々が実は「似非まともな」人々であったからこそだ、というのが私の見解なので・・。
 実際、この「似非まともな」人々・・彼らを私は「リベラルキリスト教徒」と呼んできた・・は、「いかれた」人々・・彼らを私は「原理主義的キリスト教徒」と呼んできた・・よりもおぞましい存在である、と、かねてから私は指摘してきた(コラム#省略)ところです。(太田)
 (5)著者に対する批判
 「著者がつけた、この本のいささか大袈裟なタイトルは、<この本の中では>若干のニューイングランドの知識人達の研究だけしか開陳されていない以上、羊頭狗肉というものだ。」(B)
⇒同感です。(太田)
(完)