少年時代

私は、カルチャーショックの連続の少年時代を送りました。
1956年には、生まれてから六年間過ごした三重県四日市を後にして、商社員であった父親の任地、エジプトのカイロに赴くことになりました。

全く英語の素地がないまま、私は突然、イギリス系の小学校という英語環境に放り出され、最初は泣いて登校を嫌がったものです。しかし、子供の適応力は大変なもので、一ヶ月もすると、英語でケンカもできるようになり、両親は胸をなでおろしたようです。

カイロは、国際的な大都市であり、外国人や中流以上のエジプト人が住んでいた、ナイル川の中州の高級マンション街の雰囲気は、当時の日本の大都会と比べてもはるかに豊かで洗練されたものがありました。四日市という、日本の田舎の都市からやってきた私にとっては、びっくりすることばかりでした。その一方で、カイロの旧市街の多くの部分やカイロの郊外の農村地帯には典型的な第三世界の光景が広がっており、このコントラストも私の脳裏に強烈な印象を残しました。

他の日本人家族とのおつきあいで、初めて東京弁(標準語)を覚えたことも忘れえぬ思い出です。

小学校5年生の秋、私は母親に連れられて、父の帰国よりも一歩早く、日本に帰り、今度は東京での生活が始まります。いくらカイロで東京育ちの日本人の子供達と遊んではいたと言うものの、再度の環境の激変であったことには間違いなく、いつまでたっても回りのみんなから浮き上がった異邦人である感覚が拭えませんでした。

このような私の少年時代を貫く縦糸がピアノです。父がクラシック音楽好きであったことから、私にピアノを習わせたのですが、四日市ではまだピアノを持っている家がめずらしかった頃であり、ヤマハのアップライトピアノが運ばれてきた時、見物人が集まったことを思い出します。

カイロでは、小さな少年がピアノを上手に弾くというので話題になり、現地のフランス語の雑誌に大きな写真入りで紹介されたりし、そんなことが日本の新聞(四日市版)でも何度か報じられたようです。1958年には一ヶ月間、モーツァルトの生まれたザルツブルグ(オーストリア)のモーツアルティウム(モーツアルト記念音楽院)に短期留学したりもしました。

結局、日本に帰国後、中学一年の時に毎日新聞主催の音楽コンクールの中学生の部に出て予選で落ちたことを契機にピアノを辞めることになるのですが、良かれ悪しかれ、少年時代にピアノに打ち込んだことは、私に決定的な影響を与えたように思います。