太田 述正 Web Forum
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タイトル 日本古代史の雑学・邪馬台国と日本書紀
投稿日: 2007/06/16(Sat) 14:01
投稿者海驢

少し前、この掲示板で、いろいろ日本古代史の雑談をしようと思ってたのですが、自分の仕事も忙しいので、後回しになってしまいました。で、そろそろ、しようかなと。

で、いざ、話すとなっても、いろいろ話したいことがあるので、何度かに分けて話したいです。

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現代、日本の1500年以上前の歴史は学校では教えられない。それ以前の歴史は、歴史学ではなく、考古学として教えられている。そのために、現代の一般の日本人には、そのへんの歴史観・時代感・年代感が存在してなく、そのために、いわゆる歴史読み物系(正当な歴史学術書ではない)や歴史小説などで、トンデモ話を出回る事態になっている。例えば、文献史料の豊富な時代では、「だいたい何年くらいに、誰々がどのようなことを起こしたのか」なんとなく歴史観もあるものだから、あまりにも酷いトンデモ史観というのは出回りにくい状態になっているが、古代史の場合は、一般の日本人にはその歴史観が空白か曖昧なので、在野のアマチュア歴史研究家や歴史小説家の創作歴史発表会の場と化している。その日本の歴史が空白になった最大の要因は何なのか?それは、魏志に登場する邪馬台国の女王・卑弥呼の存在である。今から1300年前に日本書紀を編纂した人たちにもとって、中国史書のこの記述が最大のテーマだった。


一般的に、九州説を強く主張する人の多くが、在野の歴史愛好家といわれる人で、彼らは歴史学や考古学とは無関係の分野から歴史が趣味で私的に研究している人が多い。安本氏などは、その典型で、彼は心理学が専門だったりする。また、彼らの中には、九州の観光行政と結びついていたりもしている場合もある。

<あと、邪馬台国九州説を強く主張する人には原理主義的な右派も多い。本居宣長の思想を強く受け継いでいるのか? 天皇家が中国に朝貢した事実を嫌う傾向にあり、卑弥呼が天皇家の人間だと困るということである。本居宣長がまさにそうで、彼は邪馬台国九州説を立ち上げたのもそういう理由からである。しかし、結果的に、彼らの行為は、日本の数百年に渡る古代史を消失させる原因を作って、彼らの願望とは逆の結果になった。>

逆に畿内説の人は、考古学の学会などが中心で、5年以上前で既に9割以上が畿内説だったから、今ではもっと多いかもしれない。よく、東大=九州説、京大=畿内説、というふうに言われるが、これは、東大のほうが京大よりも九州説が多くいるというだけの話で、今は学会のほうでは、関東でも近畿でも九州のほうでも、畿内説が圧倒的に優勢だ。これは、年輪年代測定法や炭素年代測定方法などの考古学の科学的な研究の進歩によるものだ。


では、何故、邪馬台国論争を重要なのかというと、この問題というのは、魏志倭人伝に書かれている180年?〜250年くらいの出来事だけじゃなく、少なくとも、その前後、数百年くらいの日本の成立過程の大枠までが一気に解明してしまうかもしれないから。

邪馬台国が、九州か畿内かで、日本に全国規模の政権が誕生した時期が違ってくる。

邪馬台国が九州の場合、少なくとも250年の段階では日本に全国規模の政権が誕生していないことになる。で、一般的に騎馬民族説のようなのは、邪馬台国九州説と結びついて、出回ることが多い。なぜなら、3世紀の中頃では、まだ日本に統一政権が誕生していないことになり、また、日本の記紀に書いてある年代が以前不明のままであり、以前、1500年以上前の日本の歴史が空白のまま。日本がその時点でまだ分裂しているのなら、伽耶地域のような韓国南部から日本を征服する可能性もありかもしれないとか、九州にあった邪馬台国が畿内へ東征してヤマト王権になったとか、卑弥呼=天照大神 みたいな説が出てくる。

しかし、畿内説の場合、250年の段階で既に畿内周辺から北九州くらいまでの統一連合王権が誕生していることになる。魏志倭人伝には、推定所在地がほぼ北九州で確実な「対馬国〜奴国」が女王国に従属していたふうに書かれており、「女王国が伊都国に一大率を置いて諸国を監視していた」みたいなことが書かれている。ちょうど、奈良時代以降の大宰府とか九州探題みたいな感じで。

また、畿内説のほうが、考古学的資料と日本文献史料(古事記・日本書紀・白河本旧事紀、海部氏系図など)と中国文献史料(魏書、漢書、宋書など)との間に、はじめて整合性がとれはじめ、戦後に衰退した古事記や日本書紀などが文献史料として復権する可能性が出てくる。(日本書紀に記載されている崇神天皇10年の出来事と、魏志に書かれている正始8年(247年)の出来事が一致しはじめ、日本の記紀に書かれている実年代を解明するのに、大きな手助けになる。

<考古学の権威・石野教授は、奈良県桜井市にある纏向遺跡は、その規模は後の飛鳥京や藤原京に匹敵すると推定され、この纏向京が繁栄したのは、180年〜330年くらいと推定され、おそらく、孝霊天皇、孝元天皇、開化天皇、崇神天皇、垂仁天皇、景行天皇の6代の天皇の時期と推定されているらしい。卑弥呼=倭迹迹日百襲媛命(孝霊天皇の皇女)、台与=豊鋤入姫命(崇神天皇の皇女)と推定される説が有力。>


一般的に、日本書紀と古事記には、それぞれ編纂目的が異なっている。

日本書紀(正式名称は、おそらく、「日本書」の「紀」であり、もともと、中国の「漢書」「魏書」「宋書」などと同じように、「日本書」で発行していて、その中の天皇を中心に出来事が書かれた項目が「紀」だったと思われる。が、結局はそれしか作られなかった。)というのは、中国との外交に使用する目的で作られた。たとえば、中国の外交官が使節で日本へ行く時なんかも、日本書紀などで日本の歴史などを予習してから行く。そんなわけで、日本書紀というのは、日本人が中国人に自分たちの国が誤って伝えられないように、わざわざ中国系1世を雇って、当時の正しい漢文で書こうと努力している。それで、古事記に比べて、漢字の意味になるべく忠実に日本語の名詞を表そうとしている。

そして、ここで重要になのは、日本の歴史と中国の歴史との間の年代を合わせる必要が出てくる。日本書紀は古事記と違って、中国史書のように編年体で書かれており、また、それを中国の政府や外交官が見るわけで、年代がすり合わないと困る。そこで問題になってきたのが、魏志(魏書)に記載されている中国に朝貢した女王・卑弥呼だった。彼女は何者?となる。

日本書紀では当初、編年体で書かれた書物には、時代的に卑弥呼と合致する人物はいなかった。何故かと言うと、上古代の日本では暦が違っており、一年を半年で計算(以下、倍年暦と呼ぶ)していた可能性があった。このことを匂わす記述は、中国の史書にも登場し「倭人は四季を知らない」「倭人は春耕秋収で一年としている」「倭には高齢の人が多い」というような記載が出てくる。(ちなみに、応神天皇の出生の謎なんかは、倍年暦だったことを考慮したら、生物学的に一応は説得は出来る。倍年暦を考慮すれば、仲哀天皇の死後の半年で応神天皇は産まれた事になり、仲哀天皇と神功皇后は最期まで一緒にいたから不思議ではない。神功皇后が応神天皇を産んだ時は15歳くらいの幼な妻だったことになる)

そこで、日本書紀の編纂者たちは、適当な人物を卑弥呼に当てることにし、それが神功皇后だった。神功皇后の年代が比較的に卑弥呼に近かったので、彼女の後の天皇の年代を引き伸ばし改竄することによって、神功皇后の執政時期を、卑弥呼と台与の二人の女王に無理やりすり合わせようとしている。とくに仁徳天皇の寿命と在位期間なんか見てもらえば、改竄した後が露骨で不自然なのが分かる。しかし、そもそも、卑弥呼と神功皇后は別人だ。二人の経歴はあまりにも違いすぎており、卑弥呼は倭国内限定の活動範囲で生涯独身だが、神功皇后は半島へ出兵し仲哀天皇の后で応神天皇を産んでいる。そして、卑弥呼と台与の二人の女王を、神功皇后一人に当てるというのも無理があった。そして、この年代のすり合わせは、上古代の日本が倍年暦だったことを考慮しないままの年代を改竄したために、ますます後世の歴史家を悩ます種になってしまった。

一方、古事記というのは、基本的に、日本国内向けに作られた簡単なもので、漢文も倭訛りがあって、名詞も漢字の意味よりも発音を重視していたり、年代に関しても、編年体ではなく、天皇の干支崩年、天皇の寿命みたいに、単純なものしかか書かれていない。そのために、魏志倭人伝にある卑弥呼の記述に特に配慮する必要も無かった。よって、古事記に書かれている天皇の干支崩年、天皇の寿命というのは、その正誤性は分からないが、少なくとも古事記の編纂者は『帝紀』『旧辞』の記載を淡々と記そうとしたのであろう。


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