太田述正コラム#10415(2019.3.6)
<ディビット・バーガミニ『天皇の陰謀』を読む(その7)>(2019.5.24公開)

 新たな戦争の計画は、1900年の裕仁の誕生以前から始っていた。その当時、日本に西洋式諸法律の成文化を成し遂げた二人の寡頭政治家、西園寺公望と伊藤博文は、ロシアとの交渉による合意を求めて、日本による朝鮮の支配に反対しない代わりに、北満州のロシアの優越権を認めようとしていた。

⇒西園寺が伊藤の腹心であったことは確かですが、対ロシア政策で伊藤と同じ考えであったかどうかは、ちょっと調べた限りでは不明です。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%A5%BF%E5%9C%92%E5%AF%BA%E5%85%AC%E6%9C%9B#%E4%BC%8A%E8%97%A4%E5%8D%9A%E6%96%87%E3%81%AE%E8%85%B9%E5%BF%83 (太田)

 <それに対し、>陸軍総司令官の山縣は、アムール川までのすべての満州は、日本の安全保障より優先して征服されねばならないと主張した。・・・

⇒「ロシアが義和団事件により満州に兵力を配置して撤退しなかった事態に関して・・・1901年(明治34年)4月、山<縣>はイギリスやドイツとの同盟により南下政策を阻止する強制外交を論じてい」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%B1%B1%E7%9C%8C%E6%9C%89%E6%9C%8B%E6%84%8F%E8%A6%8B%E6%9B%B8
ますが、日露戦争前の微妙な時に、こんな「過激」なことを言うはずがないでしょう。
 なお、山縣は、兵部少輔や兵部少輔(陸軍部)を維新創成期に努めたことがある
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%85%B5%E9%83%A8%E7%9C%81
けれど、陸軍大臣を務めたことがなく、1904年6月から1906年12月まで参謀総長を務めていますが、
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%8F%82%E8%AC%80%E6%9C%AC%E9%83%A8_(%E6%97%A5%E6%9C%AC)
ここは日露戦争より前の話でしょうから、「陸軍司令官」とはこれいかに、ですねえ。
 蛇足ながら、参謀総長であれ何であれ、参謀は断じて司令官ではありません。
 バーガミニと訳者、或いは訳者、のトンデモ誤りです。(太田) 

 地下組織の暗殺卿、頭山は、山縣の考えを支援するために、1901年に黒龍会を設立した。その黒龍会と言う名は、アムール川の中国名、黒竜江からきている。・・・

⇒黒龍会と山縣との直接的関係はなさそうです。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%BB%92%E9%BE%8D%E4%BC%9A (太田)

 明治天皇と存命している孝明天皇の相談役朝彦親王は、それを聞き流し、日本の最終的な目的に何らかの制限を付けることに反対していた。

⇒明治天皇が、伊藤らはもとより、山縣よりも対外強硬派であったかのようなニュアンスですが、「日露戦争の『宣戦の詔勅』に続いて作成された詔勅草案は、「信教の自由」と「戦争の不幸」を強調していたが、大臣らの署名がないまま交付されなかった」こと
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%98%8E%E6%B2%BB%E5%A4%A9%E7%9A%87
から実質的な意味で、また、そもそも、「1886年(明治19年)9月7日に明治天皇と伊藤博文(内閣総理大臣兼宮内大臣)が内閣を代表する形で交わした約束事<である>・・・機務六条・・・によって、天皇と内閣の関係を規定すると同時に、明治天皇が親政の意思を事実上放棄して、天皇の立憲君主としての立場を受け入れることを表明した。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%A9%9F%E5%8B%99%E5%85%AD%E6%9D%A1
から形式的にも、ありえない話です。(太田)

 山縣は、日清戦争の後の1896年にフランスとドイツが行ったような日本への干渉がないならば、日本はロシアに対する勝算ある機会を作り出せることを保<証>した。明治天皇はそこで、フランスとドイツを中立化させ、ロシアと一対一で戦うことを日本に可能とさせる、英国との同盟関係を探ることを決定した。

⇒明治天皇を前面に出しているナンセンスはともかく、山縣らが推していた日英同盟案に伊藤が反対していたことは事実です。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%BC%8A%E8%97%A4%E5%8D%9A%E6%96%87 前掲(太田)

 天皇を戦争に向かわせることから避けるための動きのひとつとして、西洋化した寡頭政治家である伊藤博文は、1900年の秋、日本で初の本格的な政党である立憲政友会を設立して、国民の声をまとめようとした。

⇒「立憲政友会<は、>・・・1900年(明治33年)9月15日、超然主義の破綻と政党政治の必要性を感じた伊藤博文が自らの与党として組織した」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%AB%8B%E6%86%B2%E6%94%BF%E5%8F%8B%E4%BC%9A
ものであり、このくだりもバーガミニの妄想の産物です。(太田)

 それ以前にも政党はあったが、1882年以降、それら14以上が消滅したが、伊藤は、国民の過半数の委託をうけるにたる、持続する組織を作るための多数の支持をとりつけていた。その後の35年間、その党は、安定して全投票の45から60パーセントを確保した。そうではあったが、同党は、それが掲げる憲法そのものに、天皇の権力の優越性――ことにすべての官僚を任命する力――が規定されていたため、そのたたかいは空しいものに終わった。国会での軍事予算の拡大に抵抗することによって、伊藤は、彼の党が日本の平和を維持できる、と夢見ていたのであった。・・・」
https://retirementaustralia.net/old/rk_tr_emperor_30_06_1.htm

⇒話は逆です。
 「依然として超然主義を奉じる貴族院最大会派の研究会は伊藤の<立憲政友会への>入党要請を拒絶する会派決議を行ったばかりでなく、1901年義和団の乱の軍費捻出のための増税案を他の5会派・・・を糾合して否決、伊藤内閣を総辞職に追い込んだ」(上掲)のですし、立憲政友会は「1904年日露戦争で<も、当時の>桂内閣を支持した」(上掲)のですからね。(太田)

(続く)