太田述正コラム#11862(2021.2.25)
<呉座勇一『応仁の乱–戦国時代を生んだ大乱』を読む(その25)>(2021.5.20公開)

 「<応仁の乱の最中、>備後で土一揆が蜂起し、徳政を要求した。
 この土一揆は西軍の大内勢と戦って敗れているので、東軍に扇動されたものと思われる。
 徳政を呼号して蜂起しているのだから、彼らは東軍から「徳政」を約束されたのだろう。・・・
 徳政令を利用した軍事動員は、応仁の乱後も見られる。
 ・・・1504<年>9月、薬師寺元一<(注62)>(もとかず)が淀城に立籠もり、主君である細川政元に対して反乱を起こした。

 (注62)「薬師寺元長の実子ともされているが、元長の弟である薬師寺長盛の長男で子供のいない元長の養子になったとする説が有力視される。・・・
 1501年・・・、元長が死去し<、>・・・摂津守護代職は分割され、兄である元一(与一・九郎左衛門・備後守)が上郡守護代に、弟である長忠・・・が実父・長盛の地位を引き継ぐ形で下郡守護代に就いたと考えられている。・・・
 1504年・・・閏3月、政元が突如、元一を守護代から解任しようとする。ところが、11代将軍・足利義澄がこの人事に介入して政元に命じて解任を中止させ<た。>・・・
 同年9月、赤沢朝経と共に政元を廃して・・・政元<が>・・・阿波国細川家から・・・養子に迎え<た>・・・細川澄元・・・を擁立しようという陰謀を企て、・・・摂津で挙兵する。しかし、次弟の長忠らに攻められて敗れ、居城の淀城は落城して捕縛された。そして、政元の命令で京都に送られて自害を余儀なくされた。・・・
 辞世の句「地獄には よき我が主(若衆)の あるやとて 今日おもひたつ 旅衣かな」から、主君の政元と男色関係にあったとも言われる。この歌は掛詞となっており、「我が主」と詠むと地獄にいる良い主のもとに決然と旅立つ歌となるが、「若衆」と詠むと地獄にも良い若衆がおりお前にとっても居心地がよいぞ、と政元を地獄へと誘う不吉な歌となる。実際、元一は家臣に辞世を伝えさせる際、「若衆と聞こえるよう発音しろ」と指示したという。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%96%AC%E5%B8%AB%E5%AF%BA%E5%85%83%E4%B8%80
 「薬師寺氏<は、>・・・藤原氏秀郷流の小山氏の後裔という。」
http://www2.harimaya.com/sengoku/html/yakusi_k.html

 細川勢が討伐のため出陣すると、その隙をついて土一揆が京都で蜂起する。
 これに対して幕府は徳政令を出して土一揆を懐柔するとともに、京都周辺の郷村に半済免除を条件に軍事動員をかけた。
 土一揆をはじめ、京都住民や近隣の郷民は、幕府軍に率いられた淀城を攻撃し、薬師寺元一を破っている・・・。・・・
 中世人は、為政者の交代の際に、所有関係や賃借関係などそれまでに形成された社会の諸関係が清算されるという社会観念を持っていた。<(注63)>・・・」(268~269)
 
 (注63)「室町中期ごろ、・・・当時の先進地域だった畿内において、民衆が連帯組織=一揆を形成して、支配者(幕府や守護など)へ政治的な要求を行うようになった。これを土一揆という。この頃には、惣村の形成に見られるように、百姓らの自治・連帯意識が非常に高まっており、そうした流れの中で、百姓や地侍、馬借らが広域的に連合する土一揆が発生したと考えられている。土一揆の「土」とは当時の農民や百姓のことを「土民」と称したことに因む。
 土一揆のほとんどは、徳政の実施を要求した。そのため、土一揆を徳政一揆ということもある。・・・
 これに対して国人勢力が中心となって波及したものを国一揆という・・・
 当時、動産・不動産の所有権は、売買などが行われたとしても、本来は元の所有者が保持しているのがあるべき姿だとする観念が存在しており、あるべき姿=元の所有者へ所有権を戻すことこそ、正しい政治=徳政であるという思想が広く浸透していた。百姓らにとって、そうした徳政を要求することは、当然の権利と認識されており、経済的な困窮が土一揆の主要因だったとは言えない。天皇や将軍の代替わり時には、徳政を行うべき機会として、土一揆が発生することが多かった。次第に土一揆は頻発していき、毎年のように見られるようになった。
 こうした土一揆の頻発は、幕府権力の弱体化をもたらしていったが、幕府の対応は鈍く更に実際に鎮圧にあたった守護大名配下の武士の中にも長年の京都滞在に伴う生活逼迫から似たような状況下に置かれた農民達に同情的な者も多く一揆側に寝返る者が現れる始末で、幕府が度々諸大名に配下の徹底管理を命じている。また、応仁の乱直前には都に集結した兵士によって土倉などが荒らされて「私徳政」と称した事件も発生している。室町幕府は本来、土倉から土倉役、酒屋から酒屋役を徴収していたが、徳政令を発布すると、土倉が収益を失うために土倉役を免除しなければならない規定があり、当初は「徳政禁止」の命令も出した。だが、一揆はますます増加するようになり、果ては幕府自体が財政難を救うためにあえて一揆を黙認して「分一徳政令」(紛争となった債権額の一割を幕府に納付した紛争当事者が自由に処理できるとした徳政令)を出すに至ったのである。このため、土倉や寺院と言った一揆の標的となりそうな者達は自ら自衛のための兵士を雇ってこれを防ぐ他なかった。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%9C%9F%E4%B8%80%E6%8F%86
 「国一揆は南北朝時代、室町時代の領主層による領主権の確保を目的とした連合形態(一揆)を言う。国一揆が形成される要因のひとつとして外部からの政治的圧力の介入などが挙げられ、それらに対抗する為の軍事的共同形態的な結び付きが強く、目的が達成される、あるいは脅威が去った際には国一揆は解体される。・・・
 代表的な国一揆として播磨の国一揆、伊賀惣国一揆、加賀一向一揆などが挙げられる。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%9B%BD%E4%B8%80%E6%8F%86

⇒「百姓らの自治・連帯意識が非常に高まって」いたにもかかわらず、土一揆を通じて何年間にも及ぶ広域自治が成立したことがなく、また、国一揆においても、一向一揆等特定の宗派をベースにしたもの(上掲)を除けば、何年間にも及ぶ広域自治が成立したのは1485~93年の山城国一揆(前出)や1552/67~1581年の伊賀惣国一揆
https://kotobank.jp/word/%E4%BC%8A%E8%B3%80%E6%83%A3%E5%9B%BD%E4%B8%80%E6%8F%86-817176
くらいで、伊賀惣国一揆こそ、最終的には「織田信長の伊賀攻めによって・・・敗北・解体し<ている(上掲)けれど、>・・・山城国一揆は自発的に解体し」ており(前出)、いかに、人間主義的統治が武士たる為政者達によって行われていたかを示している、というのが私の見方です。
 これは、政治が、本質的に汚れ仕事であり、時代をさかのぼればのぼるほど、それに加えて、生命の危機に日常的に晒される度合いが甚だしかったところの厳しい仕事であったこと、を思えば、政治は、大部分の人々にとってはできることなら就きたくない仕事であった、ということを物語っている、と思うのです。(太田)

(続く)