太田述正コラム#12816(2022.6.16)
<伊藤之雄『山県有朋–愚直な権力者の生涯』を読む(その6)>(2022.9.8公開)

 「・・・<戊辰戦争が始まると、>山県は命により・・・江戸に行った。
 江戸で山県は、東征大総督府参謀の西郷隆盛を何度も訪れ、江戸や東国の事情を聞いた。
 10日以上江戸に滞在した頃に、奇兵隊が越後口への出兵を命じられ、山県に上方に戻るようにという使いが来た。
 たまたま西郷も江戸から京都へ行く命を受けたので、山県は・・・4月29日に薩摩藩の蒸気船に西郷と同乗し、閏4月5日に大坂川口に到着した。
 江戸滞在中や船中で西郷と語り合ったことは、<有意義>・・・であったと、後年山県は回想した。
 とりわけ西郷が藤田東湖・・・に会った際の話が、山県には印象深かった。
 西郷によると、藤田は議論が自由自在で決断に富む等、真に立派な男子の資質を備えている、しかし、他人が藤田に最も及ばないところは、どのような場合でも「切先き三寸を秘して、決して人の窺ふを許さざりし」(他人が藤田の考えていることの大体をうかがい知ることができても、一番深いところは決して見せなかった)ことである。
 山県は、藤田が英雄であることはすでに世間でも認められているが、「英雄の英雄を評したる、其味亦自ら別なるものあり」というべきである、と回想した・・・。

⇒勝海舟は、「藤田東湖は、多少は学問もあり、剣術も達者で、一廉役に立ちそうな男だったヨ。しかし、どうも軽率で困るよ。非常に騒ぎ出すでノー。西郷(隆盛)は東湖を悪く言うて居たよ。おれも大嫌いだよ。なかなか学問もあって、議論も強かったが、本当に国を思うという赤心がない」と言っています
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%97%A4%E7%94%B0%E6%9D%B1%E6%B9%96
が、私は勝海舟をそれほど評価してはいない(コラム#省略)けれど、この藤田東湖評に関しては当たっているように思います。
 というのも、西郷自身が「藤田という人は君徳輔翼の上にも余程力のあった人である。夫れはドウであるかというと、東湖が死んだ後は烈公の徳望も東湖の在世ほどにはないということを聞いた。東湖が在世のときには烈公の徳望は一尺あるものも二尺に見えたが、東湖が死んでからはそう行かない。これを見ると藤田の輔翼の力は豪いものである」という東湖評も残しており(上掲)、勝と西郷は、言い方こそ異なっているけれど、どうやら、東湖は、学者としてというよりは行政官として傑出していて、だからこそ、徳川斉昭に重用された、と考えられるからです。
 以上を踏まえれば、海舟は西郷が東湖を「悪く言うて居た」と語っているところ、私は海舟がウソはつく人物ではないと思っている・・勝が、太平洋を渡った咸臨丸の艦長を務めたことや江戸無血開城を西郷と成し遂げたことを自慢した
http://www.technosjapan.jp/column/column03/001115.html
http://mainichiwanz.com/AAB/AAB_003.html
のは、それぞれの時に自分以上に大きな役割を果たした人物であるところの、それぞれ、木村芥舟
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%9C%A8%E6%9D%91%E8%8A%A5%E8%88%9F
と山岡鉄舟、
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%B1%B1%E5%B2%A1%E9%89%84%E8%88%9F
のことまで語らなかったというだけなのことなのでウソを付いたとまでは言えません・・ので、西郷は山縣にこの点はウソを付いた、ということにならざるをえません。
 では、一体どうしてそんなウソを付いたのかと言えば、東湖を、自分すら一目置く大人物であるかのように持ち上げた上で、自分もそう心掛けるようにしているが、お前も、「一番深いところは決して見せな<いようにしろ>」と伝えることで、山縣に確実にそう心掛けさせるためでしょう。
 そして、私の想像では、その折に、(板垣の建策をもとに自分が実行させた)薩摩御用盗
https://kotobank.jp/word/%E8%96%A9%E6%91%A9%E8%97%A9%E9%82%B8%E7%84%BC%E6%89%93%E3%81%A1%E4%BA%8B%E4%BB%B6-1539018
のことを話したのではないでしょうか。(太田)

 山県は今回の西郷との接触で、すっかり西郷に心酔してしまった。
 また西郷も山県への信頼を深めた。

⇒西郷(1828~1877年)は、この時点で、(長州藩と薩摩藩の両方に足掛かりを持ち、既に秀吉流日蓮主義/島津斉彬コンセンサス信奉者になっていたところの、)山縣(1838~1922年)、と、義兄弟の契りを結んだ、と私は見ています。(太田)

 前年5月から6月に、山県が京都の薩摩藩邸に居候して始まった西郷との交流が、このように深まったのであった。
 藤田が心の奥を見せなかったことを西郷が評価していることは、これ以降の西郷の言動と重なり合って興味深い。
 山県自身もまた、老熟するにしたがって、そういう人柄になっていくのである。」(62~63)

⇒いや、山縣は、もともとそういう人柄だった、と私は見ており、爾後、より「一番深いところ」を隠すのが巧みになったというくらいのことでしょう。(太田)

(続く)