太田述正コラム#13106(2022.11.8)
<工藤美知尋『海軍大将 井上成美』を読む(その17)>(2023.2.3公開)

 「・・・昭和12年3月、お茶の水高等女学校を卒業していた・・・娘の・・・靚子に、海軍軍医科士官との縁談話が持ち上がった。・・・
 靚子と丸田吉人<(注25)>の・・・10月10日<の>・・・華燭の典<の>・・・来賓には、この年8月、平沼の後を受けて首相に就任したばかりの阿部信行夫妻が列席した。

 (注25)「海軍軍医中佐、北海道帝国大学医学部在学中に海軍軍医学生となった現役軍医科士官。重巡「鳥海」軍医長としてレイテ沖海戦で戦死。父は丸田幸治 海軍軍医少将。」(※)

 阿部首相夫人は井上の亡妻喜久代<(注26)>の<長>姉であり、靚子は高女時代の半分以上を阿部家に寄寓していた。

 (注26)「喜久代の父は、陸軍二等主計正(後年の陸軍主計中佐)の原知信(とものぶ)。原は、陸軍を早く退き、金沢市で陶磁器会社の重役をしていた。・・・
 関寿雄・・・陸軍大佐、士候13期。喜久代の次姉を娶る。・・・大石堅四郎・・・海軍大佐、兵42期。喜久代の妹を娶る。・・・
 <なお、>・・・稲田正純・・・陸軍中将<は、>阿部信行の娘である和子を娶る。和子は、少女時代に井上成美にたいへん可愛がられた。・・・稲田は大佐で参謀本部作戦課長を務めていた時、三国同盟締結に関して海軍省軍務局長であった井上に直談判を試みたが、相手にされなかった」(※)

⇒井上がこの阿部信行との縁を活用して陸軍の考え方を探った形跡がないことを私は批判したことがあります。(コラム#省略)(太田)

 10月23日、井上は支那方面艦隊参謀長に補され、日本を去った。
 また米内海相は平沼内閣総辞職にともなって軍事参議官となり、山本五十六次官も同日付で連合艦隊司令長官に補され、霞が関を去った。
 ところが阿部内閣は国内経済面で無能ぶりを曝け出し、昭和15<(1940)>年1月10日、発足からわずか4ヵ月半で崩壊することになった。
 1月14日、世間の予想を裏切って、組閣の大命が米内光政大将に下った。
 米内内閣成立の裏には、天皇の意を体した湯浅倉平内大臣の働きがあった。
 阿部内閣の末期、天皇は湯浅に対して、「次は米内にしてはどうかね」と言われた。
 従来の慣行である元老による首相推薦ということからして、天皇ご自身が後継首相の選任にイニシアチブをとられることは、全く異例なことであった。」(179~181)

⇒米内光政については、「日中戦争に対しては不拡大論を唱え<たが、>・・・8月以後拡大方針に転換し、・・・日独伊三国同盟締結には批判的であった」とコトバンクにある
https://kotobank.jp/word/%E7%B1%B3%E5%86%85%E5%85%89%E6%94%BF-22103
けれど、「8月9日に第二次上海事変が発生すると、8月13日の閣議で断固膺懲を唱え、陸軍派兵を主張した。8月14日には、不拡大主義は消滅し、北支事変は支那事変になったとして、全面戦争論を展開、台湾から杭州に向けて、さらに8月15日には長崎から南京に向けて海軍航空隊による渡洋爆撃を敢行した。さらに同日から8月30日まで、上海・揚州・蘇州・句容・浦口・南昌・九江を連日爆撃し、これにより日<支>戦争の戦火が各地に拡大した。1938年(昭和13年)1月11日の御前会議では、トラウトマン工作の交渉打切りを強く主張、「蔣介石を対手とせず」の第一次近衛声明につながった。1月15日の大本営政府連絡会議において、蔣介石政権との和平交渉、トラウトマン工作の継続を強く主張する陸軍参謀次長・多田駿に反対して、米内は交渉打切りを主張し、近衛総理をして「爾後国民政府を対手とせず」という発言にいたらしめた。これは<支那>における最も有力な交渉相手を捨て去って泥沼の長期戦に道を拓いた上、<米国>政府の対日感情を著しく悪化させた。
 11月25日の五相会議で、米内は海南島攻略を提案し合意事項とした。当時の海軍中央部では「海南島作戦が将来の対英米戦に備えるものである」という認識は常識であり、米内は「対英米戦と海南島作戦の関係性」は承知であった。この件に関して、「第二次上海事変で、出兵に反対する賀屋興宣を閣議で怒鳴りつけて、無理矢理、兵を出して、シナ事変を泥沼化させた」「海南島に出兵を強行して日米関係を決定的に悪化させた」という批判もある[要出典]。この言動は、海軍の論理を政治の世界で優先させるということが米内の一貫した思想にすぎなかったということを示しており、当時、上海や海南島には多数の海軍部隊が孤立しており、それを救出するために米内は派兵を主張したが、その派兵が事変全体の長期化を招く危険には米内は考慮をはらっていなかった。・・・
 <また、>日独伊三国同盟反対論について、・・・日独防共協定締結に際して・・・「なぜソ連と手を握らないか」と慨嘆した親ソ派であった<米内は、>・・・「海軍力が日独伊では米英に及ばないという海軍の論理から反対しただけであって、大局的な意味での反対論ではなかった」「魅力に富んだ知的人物だが、政治面において定見のある人物とはいえなかった」という否定的な意見もある」と、主として福田和也(注27)に依拠して米内論を展開しているウィキペディア執筆陣
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%B1%B3%E5%86%85%E5%85%89%E6%94%BF
の見識に敬意を表します。

 (注27)1960年~。慶大文(仏文)卒、同大院修士。慶大環境情報学部助教授、教授、等。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%A6%8F%E7%94%B0%E5%92%8C%E4%B9%9F

 「<1939年>8月30日 昭和天皇は、米内に「海軍が(命がけで三国同盟を阻止したことに対し)良くやってくれたので、日本の国は救われた」という言葉をかけたという」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%B1%B3%E5%86%85%E5%85%89%E6%94%BF 前掲
けれど、これは、上海事変の時等の米内の言動を忘れたかのような昭和天皇による大甘の米内賞賛であり、湯浅は、杉山構想に基づく対英米戦の時期が近づいてきたことから、近衛を首相に復帰させるべく説得を続ける間の中継ぎとして、昭和天皇の米内への好意を利用し、牧野や杉山と相談の上、あえて米内を首相に任じた上で、機が熟した時に、陸相引き上げの形で米内を切ることにした、というのが私の見方です。(太田)

(続く)