太田述正コラム#14728(2025.1.27)
<池上裕子『織豊政権と江戸幕府』を読む(その14)>(2025.4.24公開)
「ついで信長は、正月23日、明智光秀に京都で馬揃(うまぞろえ)を行う準備を命じ、分国中に動員令を発して、出来る限りの趣向を凝らして参加するよう命じた。
全国60余州にうわさが広まるよう計算してのことである。
2月28日、御所の東側に設けられた馬場で、天皇・公家や宣教師らを招待し多くの見物人の見守るなか、華美をきわめた馬揃が行われた。
行列は下京本能寺を出て室町通りを北上したので、その道中でも多くの見物人を楽しませた。・・・
⇒日蓮宗の本能寺を起点としたのは、言わずと知れた、近い将来、日蓮主義に基づいて軍隊を渡海させるところ、この馬揃はその予行景気づけ演習である旨の宣言でしょう。(太田)
<参加者中の>公家衆、近衛信尹(のぶただ)・正親町季秀・烏丸光宣・日野輝資・高倉永孝は、信長に陣参すなわち軍役奉仕しているか、信長の扶持をうけている者たちで、信長は彼らをかならず動員するよう光秀に命じていた。
朝廷を構成する有力公家を陣参・扶持という主従関係に編成していることを人々にみせつけたことの意味は大きい。
信長が朝廷の上に立つ存在と映ったにちがいない。」(126~127)
⇒参加公家衆中の、というか、全公家の、筆頭、と言うべき近衛家の信尹に池上があえて言及しているのが腑に落ちませんが、彼も含め、近衛家が陣参しているだの扶持を受けているだのなどそもそもありえませんし、当時権中納言だった正親町季秀(すえひで)、書で有名な烏丸光宣(みつのぶ)、そして、高倉永孝(ながたか)(注30)、
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%AD%A3%E8%A6%AA%E7%94%BA%E5%AD%A3%E7%A7%80
https://kotobank.jp/word/%E7%83%8F%E4%B8%B8%E5%85%89%E5%AE%A3-15877
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%AB%98%E5%80%89%E6%B0%B8%E5%AD%9D
にも、そんな「経歴」は全くなさそうであるところ、日野輝資についても、「昵近公家衆として、15代将軍・足利義昭に仕え、永禄13年(1570年)4月には飛鳥井雅敦と共に金ヶ崎の戦いに従軍した。元亀4年(1573年)7月、義昭が織田信長に対して挙兵すると、輝資もこれに従った。義昭が巨椋池の傍にある槇島城に籠城すると、輝資は奉公衆の三淵藤英、政所執事の伊勢貞興、同じく昵近公家衆の高倉永相などと共に二条御所を任された。輝資らは籠城したものの、織田軍に御所を囲まれると、藤英を一人残して降伏して退城した。天正2年(1574年)3月26日、輝資は正親町天皇の勅使として、飛鳥井雅春(雅清)と共に織田信長の下に訪れ、蘭奢待切り取りの勅許の旨を伝えた。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%97%A5%E9%87%8E%E8%BC%9D%E8%B3%87
という経歴から、義昭の昵懇公家衆であった時に受け取っていたと思われる扶持がまわりまわって信長から支払われていた時期があった可能性は否定できないけれど、義昭が追放された後、「幕府に代わって政権を担った織田信長・豊臣秀吉は昵懇衆にあたるものを編成しなかった。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%98%B5%E6%87%87%E8%A1%86
ことから、馬揃当時において、信長から扶持を受け取る根拠がありませんし、もちろん信長の戦に陣参もしていないことから、同じことが言えそうです。
(注30)明治天皇の生母の中山慶子の祖先にあたる。
https://rekishi.directory/%E9%AB%98%E5%80%89%E6%B0%B8%E5%AD%9D
ですから、見物人に「信長が朝廷の上に立つ存在と映った」わけがありません。(太田)
(続く)