太田述正コラム#14760(2025.2.12)
<池上裕子『織豊政権と江戸幕府』を読む(その30)>(2025.5.10公開)

 「・・・秀吉の明征服妄想のもと、領土拡張欲に勇んで出陣した者、軍役・夫役で否応なしに送り出された者たちが、朝鮮で乱暴・狼藉、虐殺、掠奪の限りをつくした。
 出兵がはじまってじきに、生捕られた男女が名護屋に送られてきた。
 戦功を示すための首を積んだ船も着岸した。
 兵士たちは誰もが朝鮮の男女、子供を捕えて、日本の家族に土産のように送り届けたり、奴隷として売ったりしていた、
 秀吉自身、それを禁止する命令を発しながら、大名に対し、捕えた朝鮮人の中で細工をする職人や縫官などがいたら進上せよと命じているのである。
 藤木久志<(コラム#12016等)>氏はこうした人の掠奪(奴隷狩り)や物の掠奪は、日本の戦場で行われたいたのをそのまま朝鮮へもち出したものだとして、内外の戦争の悲惨さを生々しく描きだした。
 日本からは多くの奴隷商人が朝鮮へ渡って戦場をかけまわり、捕えられた人々を買いあさったり、みずから掠奪をしたりして日本に連れ帰り、日本人やポルトガル商人に売っていた。・・・
 このため、長崎は奴隷の一大売買市場となり、慶長元年にフロイスは長崎で朝鮮人1300人に洗礼を行ったと記している。
 奴隷となった人々の多くは、東南アジアに連れていかれたり、朝鮮出兵で多くの百姓が人夫として徴発されたり欠落してしまったため放置された田畑の耕作をさせられたり、町人の家の下人・下女とさせられたりして、二度と故国に帰ることができなかったのである。
 そうして朝鮮からむりやり連れ出された人々は数万人に及んだとみられている。
 掠奪は第一次出兵時より第二次の方がより激しかったようだ。
 その中には朱子学者で、江戸時代の朱子学の基礎を築いた藤原惺窩に大きな影響を与えた姜沆<(注50)>(カンハン)(のち帰国)のような人もいる。

 (注50)1567~1618年。「1593年、朝鮮王朝における文科に合格したが、1597年の慶長の役(丁酉再乱)では刑曹佐郎という要職に就いており、全羅道で明の将軍・楊元への食糧輸送任務に従事していた。しかし日本軍の進撃によって全羅道戦線が崩壊し、一族で避難中に鳴梁海戦後に黄海沿岸へ進出していた藤堂高虎の水軍により捕虜とされ、海路日本へ移送された。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%A7%9C%E6%B2%86
 「伊予の大津(大洲)、京都の伏見に幽閉され、その間の生活を記録に書き記し、三年後帰国した姜沆は「看羊録」と名付けた記録を刊行した。・・・
 大津城(大洲)に幽閉された姜沆は金山出石寺の住職と交流を深め、次第にかたくなな心を開いていたが、望郷の念にかられていた。慶長3年(1598)4月末、京都から同じようにとらわれていた、一人の朝鮮人が大洲に逃げてきた。5月25日夜、姜沆はその人物ともう一人の三人で南に脱走した。・・・
 姜沆の脱走は大津藩にとっては一大事であった。姜沆は虜囚ながらも優れた学者であり、特別な存在であった。脱走が発覚してから、八方に手を尽くす中で、板島藩内に現れた、という情報は、すでに大津にも聞こえていたのだろう。その姜沆が死罪になっては、大津藩の面目がつぶれる。大切な預かった人物を死なす訳にはいかない、ということで大津藩士は処刑阻止のため、矢無を得ず抜刀して自らの命に替えて姜沆を守ろうとした。・・・
 まさに紙一重で姜沆の命は救われた。奇しくも朝鮮で姜沆を捕らえた藤堂新七郎は、当時板島にいた。大津から迎えが来るまで、姜沆は藤堂の屋敷に招かれて酒食のもてなしを受けることになった。ここで姜沆は諭されたのか、以後脱走を試みることなく、京都伏見に身柄を送られるまで、大津で生活をする。・・・
 伏見に移されてからの姜沆は、藤原惺窩、赤松広通などと交流し、儒教を教えるとともに、日本の文化に付いても勉強を始めた。姜沆の学識の偉大さを知った藤原惺窩は、赤松広通の助けを得ながら、「四書五経」【四書=大学・中庸・論語・孟子、五経=易経・詩経・書経・春秋・礼記】の和訳を始め、慶長4年(1599)2月15日に遂に完成をみる。このとき惺窩は感動にふるえながら「日本、宗儒の義を唱ふる者、この書をもって原本とせよ」と書いた。
 慶長5年(1600)4月2日先述した姜沆理解者たちの援助もあり、彼は公に伏見を去り、故国目指して旅立った。」
http://tack7.fc2web.com/nenpyou/kan.html
 「<看羊録の中で、>「日本はどんな才能、どんな物であっても必ず天下一を掲げる。壁塗り、屋根ふきなどにも天下一の肩書が付けば、多額の金銀が投じられるのは普通だ」と綴っている。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%A7%9C%E6%B2%86 前掲

 また、多くの陶工たちがいた。
 陶磁器では朝鮮の技術は日本をずっと上回っていたので、彼らによって日本に磁器の生産技術がもたらされたり、茶の湯の流行に合致した新しい焼き物が作られたりした。
 毛利領の萩焼、鍋島領の有田焼(伊万里焼)、島津領の薩摩焼などが主なものである<。>」(320~321)」

⇒殺されたり奴隷として売り飛ばされた朝鮮人達はさておき、朝鮮から日本へは最先端の(支那の)朱子学や(朝鮮の)焼き物が伝わり、繁栄したというのに、例えば姜沆が日本から持ち帰った匠の精神、ひいては人間主義、は、朝鮮に何の痕跡も残さなかったところに、朝鮮の悲劇的問題性が如実に表れていますね。(太田)

(完)