太田述正コラム#14758(2025.2.11)
<池上裕子『織豊政権と江戸幕府』を読む(その29)>(2025.5.9公開)
[後金にとっての金]
「完顔部(満洲のワンギャ部の前身で、慣例としてワンヤンと読む)は、女真人のうち、遼からは間接統治を受ける生女真(せいじょしん)の一部族であり、松花江の支流である按出虎水(アルチュフ川)の流域(現在の黒竜江省ハルビン市)に居住していた。・・・
<完顔>阿骨打(<ワンヤン>アクダ<。1068~1123年>)の先祖は、完顔部の族長として節度使の称号を遼から与えられ、遼の宗主権下で次第に勢力を拡大した。・・・
1113年、<兄の>ウヤスが死去したのちは、アクダが首長の地位を継承し、節度使の称号を得ていた。
<そして>、女真(ジュシェン)の君長から成る勃極烈(ボギレ)<(注49)>制度を整備し、そのリーダーとして都勃極烈(トボギレ)を称した。
(注49)bogile。「金の中央執行機関。女真語で君長,大臣の意。・・・完顔阿骨打・・・は生女真を統一したのち,自己の地位の表示にこの語を用い,みずからを都ボギレと称し,ボギレ数名と完顔部の族長会議を構成。収国1 (1115) 年これを国家の中央政治組織に改編,アンバン (諳班) ,グルン (国論) ,グルンアマイ (国論阿買) ,グルン (国論) 昃 (しょく) の4ボギレを設置した。天会 12 (34) 年に廃止され,<支那>風の三省制となった。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%98%BF%E9%AA%A8%E6%89%93
当時<支那>東北部を支配していたのは、契丹(キタン)人国家の遼で、その皇帝であった天祚帝は、即位当時はともあれ、<支那>風の豪奢な生活を送るようになり、酒食に溺れ、狩猟にうつつをぬかしており、その華美な宮廷生活を支えるための女真人への搾取も強化され、貢納督促にあたる遼の役人の横暴さは女真の人びとを怒らせた。生女真の長アクダはついに立ち上がり、1114年に契丹(キタン)人国家の遊牧民王朝である遼に対して挙兵し、遼の拠点の寧江州を攻撃し、占領した。また女真の旧慣にしたがって猛安・謀克の制を立てて、女真人を軍事的に組織した。すなわち、300戸をもって1謀克(ムクン)に組織し、それが10集まって1猛安(ミンガン)としたのである<。>
1115年、阿骨打は、按出虎水(アルチュフ)の河畔で皇帝に即位し、国号を大金と定め、会寧を都とし、「収国」の年号を定めた。按出虎水の女真名アルチュフは、女真語で”黄金”を意味しており、「金(アルチュフ)」の国号は、按出虎水から産出する砂金の交易によって女真族が栄えたことによるとされる。金朝の最初の首都となった会寧(上京会寧府)は、按出虎水の河畔にあり、現在のハルビン市阿城区にあたる。『金史』(1345年成立)によれば、アクダは、遼は、堅い精錬した鉄を国の号としたが、それは結局変色し、壊滅する。ただ、金だけはそうはならない。金の色は白く、ワンヤン部は白色をたっとぶのだ。<」>として、遼に対する強烈な対抗心をみせている。
同年、アクダの軍が、契丹の女真支配の拠点となっていた黄龍府(現在の吉林省長春市農安県)を攻めると、契丹最後の皇帝天祚帝は、みずから70万とも号する兵を率いて遠征したが、アクダ軍の大勝利に終わった。1116年、アクダが率いる女真軍は、東京遼陽府(現在の遼寧省遼陽市)も陥落させて、遼東地方を支配下に収めた。遼の権威は地に墜ち、契丹はアクダに講和を申し入れた。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%98%BF%E9%AA%A8%E6%89%93
⇒女真人による金の建国にあっては、その広義の騎馬遊牧民としての固有の弥生性と強烈な反遼意識だけが窺えるのであって、そこには理念的なものなど全く介在していないと言ってよさそうだ。
宋と戦い、華北に進出し、最終的に金にとって圧倒的に優位な内容の和議を宋(南宋)と結んだのは、成り行きでそうなったに過ぎない。
従って、時代が下って、やはり、女真人としての固有の弥生性と無理念性が窺えるところの、「ヌルハチ<、>は<、モンゴルの、というか、東アジアの騎馬遊牧民全体の、皇帝として、>・・・<16>16年<、>・・・ハンの位につき,国号を後金,年号を天命と定め<、>19年サルフの戦で明軍に大勝をえてから明の遼東地方への進出を本格化したが,業半ばで26年死去した<ところ、>清朝の官撰の史書では,建国と建元を1616年におくが,朝鮮史料では早くとも1619年のこととされるので,1616年は潤色とみなされている。また国号を後金と称した事実についても,これを抹殺して当初から満洲Manjuと称したと改作をほどこしている。」
https://kotobank.jp/word/%E5%BE%8C%E9%87%91-61824
ところ、当初から国号が満洲だったように史書が改竄されたのは、ある意味当然であり、ヌルハチが、その比較的初期から、漢人王朝たる明の支配地への本格的進出を期していたにもかかわらず、漢人王朝たる宋の支配地への本格的進出を期していたわけではないところの、金(の後継国家)、を名乗ったのは間違いだったことに、ヌルハチの後継の清「皇帝」達はすぐ気づいたというわけだ。(太田)
(続く)