太田述正コラム#14756(2025.2.10)
<池上裕子『織豊政権と江戸幕府』を読む(その28)>(2025.5.8公開)

 1580年からスペインはポルトガルを併合しており、
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%95%E3%82%A7%E3%83%AA%E3%83%9A2%E4%B8%96_(%E3%82%B9%E3%83%9A%E3%82%A4%E3%83%B3%E7%8E%8B)
アジアにおけるカトリシズム普及は、ポルトガル王の要請によってインドに赴いた、イエズス会のフランシスコ・ザビエルが主導し、
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%A4%E3%82%A8%E3%82%BA%E3%82%B9%E4%BC%9A
日本のカトリシズムも概ねイエズス会の宣教師達が普及させた経緯、と、イエズス会の厳格な上意下達体制の下、キリシタンの小西行長は、イエズス会、ひいてはスペイン王フェリペ2世の指揮下で行動していたと見てよいのであって、フェリペが、事実上その沿岸地域全体を領有していたインド(上掲)、と、領有していたフィリピン、に、食指をのばそうとしていた秀吉(前出)、そして、天正15(1587)年にバテレン追放令を発出していた秀吉(前出)、の唐入りを妨害するよう指示されていたからこそ、彼はサボタージュを行ったのである、と、私は見ています。
しかし、石田三成らの奉行達は、その筆頭格の三成自身はキリシタンではなかったというのに、どうして行長のウソが見抜けなかったのでしょうか? 
 それは、彼らが、とりわけ、三成が、行長とグルだったから、で、決まりでしょう。
 そもそも、三成は、「文禄の役に際しては、行長と加藤清正の両名が年来先鋒となることを希望していたが、秀吉は行長を先鋒として、清正は2番手とした」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%B0%8F%E8%A5%BF%E8%A1%8C%E9%95%B7
ところ、この決定の際のキーパーソンは、当時、三成であると考えるのが自然でしょう。
 それまで、秀吉の最高参謀であった秀長と利休が相次いで天正19(1591)年に死去した後には、事実上、三成が、この2人とは違って(すぐ後で説明しますが、口先では、)唐入りに積極的に賛成していたこともあって、秀吉の覚えが目出度く、一人で最高参謀を務めるに至っていた、
https://sengokumiman.com/ishidamitunari.html
と、私は見ている次第です。
 ここで、その三成が、島津義久から、島津氏と一心同体の近衛家、ひいてはその近衛家と一心同体に近い天皇家、の反唐入りの意向を打ち明けられ、その結果として唐入りの失敗を企図し、それに見事に成功した、という、かねてから(コラム#12328以来、)唱えてきた私の新説を思い出して下さい。
 そして、三成以外の奉行達については、大谷吉継は家康と親しくかつ三成とは親友でそれに加えてキリシタンであり、また、増田長盛は家康のスパイと形容してもよい人物であり、この3人が奉行5人中の主要な3人と言ってよいところ、家康は前述したように唐入りそのものに反対であったと考えられることから、三成の企図に吉継と長盛が賛同し、この企図に係る三成の「指示」に従うのは火を見るよりも明らかであったと言えるでしょう。
 念のため、残りの2人の奉行達についても付言しておきますが、前野長康は、キリシタンであった上に、茶道の師と仰ぐ利休を秀吉に殺されたばかりであり、当然、唐入りには否定的であったと思われます。
 最後の長谷川秀一については、「本能寺の変の一報<が>当日の深夜に・・・堺の遊覧を終えて飯盛山の麓にあった<徳川家康>一行に、茶屋四郎次郎によって届けられ<ると、>秀一は土地鑑に乏しい一行の案内を買って出て、河内国から山城国、近江国を経て伊賀国へと抜ける道取りを説明<するとともに>、急使を飛ばして大和国衆の十市遠光に護衛の兵の派遣を要請し、行く先として想定した山城の宇治田原城主の山口甚介にも書状を送り事を説明すると山口は家臣の新末景と市野辺出雲守を派遣して草内の渡しの渡河を助け、宇治田原城へと一行を導<き、>その後、これも秀一旧知の近江信楽の代官である多羅尾光俊(山口秀景の婿養子である山口光広の実父)の所領を通って伊賀越えで京を脱出し、秀一は安全圏の尾張熱田まで家康一行に同行して<一緒に>逃げ<たおかげで>、<家康は>窮地を脱した」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%95%B7%E8%B0%B7%E5%B7%9D%E7%A7%80%E4%B8%80
ことを契機に、(その後、小牧・長久手の戦いの時には秀吉の部下として徳川軍と戦ったということもあった(上掲)けれど、)家康とは親しい関係にあったと思われ、家康の反唐入りの考えに同調していた可能性が大です。
 そもそも、自分以外の奉行の選任も三成の申し出を秀吉が承認する形で行われた可能性が大であって、当然、三成は、自分の「同志」達だけで奉行陣を固めようとした、と、思われる以上、こういう布陣になるのは当たり前であると言えるでしょう。
 こうして、文禄の役は、行長と奉行陣の描いたシナリオ通りに進行させられ、そのために、本来ありえないところの、失敗、に終わらされたのである、と、私は見ている次第であり、差し当りのその日本側の犠牲者の最たるものは、このシナリオの影の最大の協力者であったと私が見ているところの、豊臣秀次とその係累、だったのです。
 ご存じのように、秀吉は、秀次を切腹させ、その係累を根絶やしにしました。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%B1%8A%E8%87%A3%E7%A7%80%E6%AC%A1 前掲
 秀吉の怒りの大きさとこの秀次らへの措置の目的は、想像できるはずです。
 もちろん、唐入りにおいて、2番手に落とされた上、ないがしろにされた清正が三成に抱いた怒りも理解できようというものであり、この清正の怒りが、慶長の役での三成の再度のサボタージュによって増幅されたことが、秀吉死後の豊臣家の急速な没落の最大の原因になるのです。(太田)

(続く)