太田述正コラム#14754(2025.2.9)
<池上裕子『織豊政権と江戸幕府』を読む(その27)>(2025.5.7公開)
「・・・義兵の決起<や>・・・全羅左道水軍節度使・・・李舜臣の活躍<、そして、>・・・文禄元<(1592)>年に朝鮮に入った・・・明の救援軍<により、>・・・漢城に撤収した日本軍は、南下する明軍を<文禄2(1593)年>1月末に漢城北方・・・で破るなどしたが、戦局は一進一退で、兵粮は細り、日本兵の士気は低下していった。
3月なかばには兵粮倉を朝鮮側に焼き討ちされていっそう窮地に陥る。
すでに明側から何度も和議を提案されていた小西行長は、ついに和議を申し出、沈惟敬と会談して、講和交渉にもちこんだ。
朝鮮国王らは講和に強く反対していたが、それを無視して、和議は日本で明の「勅使」ら(実は正式に任命されたものでなく、明の総司令官が配下の者を私的に任じて詐称させた者)との間で勧められることになり、4月18日ついに日本軍は漢城から撤退した。・・・
前年6月秀吉は・・・石田三成・大谷吉継<(注45)>・増田長盛<(注46)>・前野長康<(注47)>・長谷川秀一<(注48)>らを奉行として派遣し<ていた。>・・・
(注45)1559/1565~1600年。「奉行衆の一人として長谷川秀一・前野長康・木村重茲・加藤光泰・石田三成・増田長盛らと共に渡海し、特に大谷・石田・増田の三人は秀吉の指令を受けて朝鮮諸将の指導にあたると共に現地報告を取り纏めた。・・・
吉継は石田三成のように最初から徳川家康を敵視しておらず、むしろ親しかったという。
天正17年(1590年)、小田原征伐に赴く秀吉が駿府城に立ち寄ろうとしたとき、三成が「駿河大納言(家康)殿は北条左京(氏直)と縁戚であり、謀略があるやも知れず、入城を見合わせては」と述べた。しかし浅野長政と吉継は「大納言殿はそのようなことをされる方ではない」と反論して秀吉に入城を勧めたという。
慶長5年(1600年)諸大名の反対を押し切って会津征伐を決断した家康を「まさに天下の主ともなる人だけのことはある」と高く評価している・・・。
会津征伐に赴く際、近江佐和山城に立ち寄って石田三成から家康に対して挙兵に及ぶので共にしてほしいと誘われたときも、家康と三成の石高・兵力・物量の差から軍事経験の差、器量の差などを評して到底家康に勝てるわけがないと諌めている。
石田三成との間には深い友情が存在したとされ<る。>・・・
<また、>1586年(天正14年)<までには>・・・改宗していた<ところの、キリシタンでもある。>」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%A4%A7%E8%B0%B7%E5%90%89%E7%B6%99
(注46)1545~1615年。「文禄の役では、石田三成、大谷吉継とともに朝鮮に渡って漢城に駐留し、奉行として占領地統治や兵站に携わった他、・・・戦いにも参加している。・・・
慶長3年(1598年)に秀吉が没すると、石田三成は反徳川家康の立場を鮮明にし、長盛もこれに与して打倒家康の謀議に参加。慶長5年(1600年)には長束正家や前田玄以など五奉行連判で家康の悪事を糾弾する弾劾書を示し、五大老の毛利輝元や宇喜多秀家を擁立して挙兵、西国大名に西軍加担を要請する文書を送るなど精力的に活動した。その一方で石田三成と大谷吉継の謀議があった7月12日の同日、家康のもとに、ただちに謀議の趣旨を密告したのである。家康配下の永井直勝に宛てた密書には、大谷吉継が美濃の垂井で病と称し、前後二日ほど滞在し、石田三成と謀議に及んだことを暗に知らせている。今後とも折々に知らせると加えていることから察すると、長盛は表裏者といえる。
伏見城攻めには自ら参加し、重臣・福原清左衛門をして城内に籠る甲賀衆に寝返りを促し、落城に導いている(甲賀郡志)。大津城の戦いには一門の増田作左衛門を陣代として軍勢を派遣し、増田勢は大津城の湖水方面から城壁を越えて乗り込み攻撃した。同城の戦いではまた、家臣・中村金六が敵方の勇士・浅見藤右衛門と組み打ちし功名をあげた。9月15日に行われた関ヶ原の戦いには参加せず、毛利輝元とともに大坂城守備部隊として西の丸に兵3,000を率いて駐屯。戦後の9月25日、出家して謝罪し、9月27日に大坂城西の丸にて沙汰を申し渡され改易となる。・・・所領没収のほかに金1900枚と銀5000枚を差し出して命だけは助けられたとされる。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%A2%97%E7%94%B0%E9%95%B7%E7%9B%9B
(注47)1528~1595年。「文禄元年(1592年)の文禄の役では、四軍監および奉行衆の一人として、兵2,000名を連れて・・・参加した。・・・
キリシタン大名で・・・後に<秀吉の>命令で改宗した。・・・
利休を茶道における師となしていた・・・。・・・
文禄4年(1595年)に秀次が謀反の罪により秀吉に自害させられると、長康も秀次を弁護したことから連座として罪に問われて・・・切腹した。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%89%8D%E9%87%8E%E9%95%B7%E5%BA%B7
(注48)ひでかず(?~1594年)。「文禄の役では、兵5000人を率いて朝鮮へと渡<った。>」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%95%B7%E8%B0%B7%E5%B7%9D%E7%A7%80%E4%B8%80
家康との関わりについては、後述参照。
石田三成ら三奉行と行長は明の使節を伴って「5月15日に肥前名古屋に帰省した。」(312~314)
⇒「<1592年>9月中旬、二番隊の加藤清正は安辺まで、鍋島直茂は咸興まで戻り、吉州から安辺までの間の城々に兵を置き、清正・鍋島直茂・相良頼房らは今後の咸鏡道の統治方針を協議していた。清正らはこの時点で他の方面軍の作戦が順調に進んでいないことを知ったようである。特に明への侵攻路である平安道を任された小西行長に対する不満は強く、9月20日に織田信雄や木下吉継に対して宛てられた書状でも憤りを表明している。・・
10月にな<っても、>・・・清正は咸鏡道の平定に自信を見せていたが、平壌での一番隊の敗走の報を聞いた漢城の奉行衆であった石田三成・大谷吉継・増田長盛は二番隊に咸鏡道からの撤退を厳命、やむなく加藤清正らは漢城への撤退を受け入れ<た。>」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%96%87%E7%A6%84%E3%83%BB%E6%85%B6%E9%95%B7%E3%81%AE%E5%BD%B9
ということから、小西行長がサボタージュを行っていたことが見て取れます。
(続く)