太田述正コラム#14752(2025.2.8)
<池上裕子『織豊政権と江戸幕府』を読む(その26)>(2025.5.6公開)

 「・・・<天正20(1592)年4月に文禄の役を始め、5月3日に首都の漢城を陥落せた後の>18日には<秀吉は>秀次や前田玄以に、明征服後の構想を書き送った。
 秀次を中国の関白とし、北京の廻りで百ヵ国を与えよう、そのため武器・兵粮・金銀・装束を準備し、来年早々に出陣できるよう用意せよ。後陽成天皇を明後年に北京に移し、その廻りの国十ヵ国を進上する、公家衆にも知行を与える。そのあとの日本の天皇には皇太子か天皇の弟をあて、関白は豊臣秀保(ひでやす)(秀長の養子)か宇喜田秀家とする。朝鮮には織田秀信(信長の孫)か宇喜田秀家をおき、名護屋には小早川秀秋をおく。
 以上が秀吉の三ヵ国支配構想(妄想)であった。
 玄以に対しては、天皇の北京行幸に供奉する用意を公家衆に指示せよといった。
 天皇自身もその気になり、五山の僧らにみずから供奉を命じている。

⇒「肥前名護屋で秀吉は自身も朝鮮へ渡海するとし「大明国を平らげたうえで、後陽成天皇の行幸を仰ぎ、鳳車(ほうしゃ:天皇の車)を明の国都北京で迎えたい」云々言い始めました。
 秀吉の渡海を浅野長政、徳川家康、前田利家が制止。後陽成天皇22歳もまた秀吉を制止するため、秀吉に下記勅書を下しました。
 「高麗国への下向、険路波濤(はとう)を乗り越えること勿体なく、諸卒を遣わしても事足りないのでしょうか。且つ朝家(ちょうか:皇室)のため、且つ天下のため、返す返す出発を遠慮するべきです。勝(かち)を千里に決して、この度の事を思い止まりましたら、とりわけ悦び思し召します。なお勅使(ちょくし:天皇の意思を伝える特使)にて申します。かしこ、太閤どのへ」
 [秀吉の渡海を切望していた石田三成(いしだみつなり)と、利家・家康との間で何度か議論が行なわれ<たものの、結局、>]秀吉の渡海は延期にな<っ>た。」
https://sengokumiman.com/goyozeitenno.html
https://www.rekishijin.com/31896/2
というのが、同年におけるその後の成り行きであったところ、池上は、一般通念とは違って、後陽成天皇は唐入りに賛成であったと主張していることになるけれど、私は、長政、利家、家康、は、秀吉が渡海しなければ、唐入りは挫折するとふんで秀吉の渡海に反対したのであると見るに至っており、後陽成天皇の秀吉渡海反対勅書発出は長政らとの連携プレイだった、と、見るのが自然であるということになりそうです。
 (なお、「石田三成が秀吉の渡海を切望していた」とは私は考えていませんが、後述するところを参照のこと。)
 いずれにせよ、同天皇が五山の僧らに北京行幸の供奉を命じたのは、そうすることで自分の真意を隠すことができると考えたためでしょう。(太田) 

 また秀吉の祐筆山中橘内(きつない)によれば、秀吉は北京に入った後、日明貿易の港であった寧波(ニンボー)に居処を定めて「天ちく(竺)きりとり(切り取り)申し候」意向だという。・・・
 かつての朝貢貿易の拠点港<に、というところに、>自己のもとでの朝貢貿易体制の再構築という志向がここでも貫かれている。
 しかしそれは、すでに過去のものとなった明の冊封体制そのものであることを、秀吉は認識していたであろうか。」(308~309)

⇒朝貢貿易と重商主義に基づく貿易とは似て非なるものです。
 ですから、池上は、このように書いたことで、事実上、自らの、信長/秀吉重商主義追求説を否定してしまっています。
 単に、秀吉は、2度目の元寇(弘安の役)の時の江南軍の出港地であり、明の時には市舶司(しはくし。海上貿易関係の事務を所管する官署)が置かれた三つの港の一つで、1523年まで行われた日明勘合貿易において日本の指定港であったところの、寧波
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%AF%A7%E6%B3%A2%E5%B8%82
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%B8%82%E8%88%B6%E5%8F%B8
を、明の最重要港と見ていて、そこから、南蛮派遣軍を派遣することを夢見ていた、ということでしょう。(太田)

(続く)