太田述正コラム#14750(2025.2.7)
<池上裕子『織豊政権と江戸幕府』を読む(その25)>(2025.5.5公開)
「・・・秀吉が信長のもとで筑前守という受領名を名乗って筑前国(貿易港博多がある)の領有を願望したように、秀吉の家臣亀井茲矩<(コラム#12328)>(これのり)は、天正10年秀吉に望みをきかれて、琉球国を給うよう望んで「琉球守」を名乗ることを認められたという。
そして茲矩はのちに琉球征服計画を立てて秀吉の許可を得たのだが、文禄元年に秀吉から計画の中止を命じられ、そのかわりに中国浙江省の内の台州を与えるといわれて「台州守」と名乗ることにしたという。・・・
秀吉が茲矩の琉球出兵をやめさせたのは、島津氏を通じて琉球の服属を進めていたからである。
島津氏自身、戦国時代から琉球に対する支配権を掌握しようと画策してきたが、天正16年義久は秀吉の意を体して琉球国王に書状を送り、秀吉が全国を統一し、朝鮮を服属させた、中国・南蛮も使者を派遣するという巷説があると、事実ではないことをいって、琉球が無礼を続けるなら攻め滅ぼすだろうと脅した。
このため国王尚寧(しょうねい)は翌年秀吉の統一を祝う使者を派遣したが、秀吉はこれをもって琉球が自分に服属したとみなした・・・。・・・
島津氏はこれを利用して、琉球をみずからの領国のように扱い、朝鮮出兵の軍役として7000人の10ヵ月分の兵粮を出せ、名護屋城の普請役を出せなどと強要し、文禄元年には秀吉から琉球を与力とすることを認められた。・・・
こうして島津氏は秀吉の・・・論理をたくみに利用して琉球への支配権を強め、慶長14年(1609)ついに武力侵攻をおこす。
それは徳川家康の許可のもとに行われたのであった。<(注44)>」(299~300)
(注44)「1591年には、朝鮮出兵に際し薩摩と共に軍役負担を琉球に命じ、応じなければまず琉球から攻める等と、秀吉からの書簡で直接かつ明確に恫喝されたのである。これは結局、軍役負担は島津氏が肩代わりし、さらに代替として求められた兵糧米の供出は、王府の苦しい台所事情もあってか要求の半分に留まり、島津に更に借りを作る(つけ入るすきを与える)ことになった。更に窮した王府が明国福建省の役人に窮状を訴え出るも、特に色よい返事はなくただ秀吉を説得せよとの回答だけであった。
実情としては、島津氏が豊臣秀吉から徳川家康・秀忠までの治世における多大な軍役負担、賦役負担のため財政難に喘いでおり立て直しのために琉球王国から奄美を割譲させるとともに琉球貿易の独占的利権を得ようとしており、「嘉吉附庸説」などを持ち出して王国への圧力を強めていた。さらに九州南部の薩摩国、大隅国などの傘下の国人領主に対する貿易統制引き締めや貿易港直轄化に乗り出し体制を整え、王国に対しても日琉間の貿易統制を命じるが、王府側はこれに黙殺を続けたために両者の関係は次第に敵対関係に転じていった。
更に徳川の治世に至ってもなお、朝鮮役後の日明関係修復の使節仲介などを巡って軋轢を生じ、終には島津氏からの最後通牒も王府は黙殺したため、家康・秀忠の許しを得て奄美・琉球侵攻へと乗り出す事になった。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%90%89%E7%90%83%E4%BE%B5%E6%94%BB
「「琉球が島津家に付属させられたのは、室町幕府の将軍普広院御所(ふこういんごしょ)時代のことである」と、一四四一(嘉吉元)年に島津忠国が室町幕府六代将軍足利義教(よしのり)から琉球を賜ったとする所説を唱え、琉球支配の正当性を遠い過去にさかのぼって主張した。
<これが、いわゆる>「嘉吉附庸」説<だが、>・・・現在まで、薩摩藩が主張するような史実は確認されていない。」
http://ktymtskz.my.coocan.jp/A/ryuky1.htm
⇒その大きさや人口こそ違え、朝鮮と琉球は、どちらも、日本とは縁こそ深いが明の朝貢国たるところの、日本にとって外国だったのであり、秀吉の唐入りの試みは、朝鮮では挫折したけれど、琉球では成功した、と、捉えることができそうですね。(太田)
(続く)