太田述正コラム#14764(2025.2.14)
<橋爪大三郎・峯村健司『あぶない中国共産党』を読む(その2)>(2025.5.12公開)

「・・・中国関係の著作を読んで、信頼できると私が思ったのは、・・・遠藤誉先生(筑波大学名誉教授)、石平先生(評論家)でしょうか。
 二人とも独特の見解をおもちですが、中国共産党についての認識は間違っていないと思う。・・・

⇒ここは、橋爪の発言ですが、今後とも、二人を区別することなく、引用紹介していきます。
 さて、私は、まさに、中国共産党についての認識において、遠藤、石の御両名は間違っていると考えていて、どちらも余り評価していないのはご承知の通りでしょう(コラム#省略)。
 遠藤に関しては、「<国共内戦時代の人民解放軍による>長春包囲戦の飢餓で弟、叔父、いとこを失う。死体が折り重なる卡子(チャーズ・・・=検問所、包囲網と解放区の間の緩衝区域)で飢餓生活を強いられ<、>・・・1990年代初頭に文部省の科研代表として北京へ赴き、卡子を書いた著者と密告されて中<共>政府から調査許可を得られず、自死を思い悩<んだ>」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%81%A0%E8%97%A4%E8%AA%89
という経験が、また、石に関しては、「文化大革命の最中、教師であった両親が大学から農場へ下放された。父親は物理教師であったが、下放されてからは豚の畜産に従事しており、以後、四川省の農村部で漢方医である祖父によって養育された。 祖父は石に漢方医を継がせるべく、医者になるための教養として密かに「論語」を教えていたが、石が11歳の時に肺がんで死去した。中学校時代はゴミ拾いの貧しい老婆が近所に住んでいて、いつも学校帰りの石少年ら子供たちに、笑顔で「勉強頑張ってね」と声をかけていたが、ある日突然その老婆がいなくなり、「反革命分子」として政府に逮捕されたことを知った。数日後に老婆はトラックに乗せられて町中の市民に見せつけるため一巡させられた後、処刑場で銃殺された。この老婆が「反毛主席」の大罪で処刑された理由が、「ゴミ捨て場から拾った毛沢東の顔写真が印刷された新聞紙で大根を包んでいたから」ということをその後知った石少年は衝撃を受けた。1980年9月に北京大学哲学部に入学し、1984年7月に卒業した。北京大学在学中の1982年頃より毛沢東暴政の再来を防ぐ目的で民主化運動に情熱を傾け始める。1988年(昭和63年)4月に日本に留学し・・・た。1966年5月の文化大革命及び1989年6月に勃発した天安門事件における党の党利党略ぶりへの憤怒と絶望感を抱き、「この国にはもはや用が無い。何の愛着も義理も無い。」と祖国である中華人民共和国との精神的決別に至った。・・・2007年(平成19年)11月30日には日本に帰化し<た>」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%9F%B3%E5%B9%B3_(%E8%A9%95%E8%AB%96%E5%AE%B6)
という、それぞれの、若年期におけるかなり特異かつ強烈な個人的経験が、中国共産党についての認識を曇らせている、と思われます。
 石の場合は、日本に帰化し、日本に過剰適応していると思われることも指摘しておきましょう。
 なお、この「石・・・<は、>7月の参院選で日本維新の会から立候補することになった」
https://www.tokyo-sports.co.jp/articles/-/333812#google_vignette
ところです。(太田)

 実は中国共産党は自らの「中国共産党史」をまだつくることができていません。
 中国共産党にとって「不都合な真実」があるからです。
 なかでも日中戦争前後の歴史については、共産党の統治の正統性にもかかわる最も重要な部分です。
 共産党は「国民党と日本を打ち破って新中国を樹立した」ことを正統性の拠り所にしています。
 ところが実際に日本と真正面から戦ったのは国民党です。
 むしろ共産党は、日本と水面下で連携して国民党に対抗する動きすらあった。」(13、18)

⇒実際には、「共産党は、日本と水面下で連携して国民党に対抗」した、というのが私の主張であって、そう言い切ることができるかどうかで、中共研究者の真贋が決まる、と、私は考えています。(太田)

(続く)