太田述正コラム#14900(2025.4.23)
<檀上寛『陸海の工作–明朝の興亡』を読む(その26)>(2025.7.19公開)

 「・・・当時は新大陸と日本とで世界の銀の半数以上を算出し・・・1600年前後<において>は年間50~80トン、中国に流入<した。>・・・
 海禁<が廃止され>たわけではないが、結果として明は銀を媒介に世界経済に組み込まれたといってよい。・・・

⇒檀上は、北宋時代に世界で初めて始まったところの、紙幣が明の英宗時代から次第に銀貨に取って代わられ、金属貨幣時代に退行していった
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%BA%A4%E9%88%94
ことに触れて然るべきでした。(太田)

 <また、>中国で発明された火器がモンゴル時代に西アジアや西洋に伝播し<(注64)>、やがて独自の発展を遂げて中国に逆輸入されたのが16世紀である。・・・

(注64)「<かつては>銃は西欧発明と考えられてきたが、銃はモンゴル帝国を通じて、ヨーロッパへ伝わったとされる。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%81%AB%E8%96%AC

 永楽帝以後、明の政策が内向きになると火器の進歩も停滞したのに対し、西洋では新式火器の開発が進んで16世紀には東西の立場が完全に逆転する。<(注65)>

 (注65)「1259年に南宋・・・で開発された突火槍と呼ばれる竹製火砲が早い時期の<大砲>とみられる、また1332年には大元統治下で、青銅鋳造の砲身長35.3cm口径10.5cmの火砲が製造され、元末に起きた農民蜂起でも多数使用された。中央アジアや西アジアでもティムール軍がイラン・イラク地域の征服、オスマン帝国のバヤズィト1世やジョチ・ウルスのトクタミシュとの戦役において攻城用の重砲と野戦用の小口径火砲を用いている。・・・
 太さが均一な管の形をした大砲は、西欧では15世紀の初頭ごろから見られるようになった・・・。この時代の大砲は射石砲またはボンバード砲と呼ばれ、石の砲丸を発射するものだった。15世紀半ば頃までには、西欧にも火砲の革新が伝わった。砲丸を大きく、射出速度を速くして投射物に巨大な運動量を与えるためには、多量の装薬の爆発に耐えうる強靭な砲身が必要であるが、その強度を得るために鋳造によって一体成型された大砲が、この時期に作られるようになった。
 高い破壊力を持った重砲の発達によってそれまで難攻不落であった防衛設備を短時間のうちに陥落させることができるようになり、防衛側と攻撃側の力関係の変化を生じさせた。1453年にオスマン帝国によるコンスタンティノポリス包囲戦という歴史的出来事が起きたが、それには口径の大きな重砲が決定的な役割を果たしている。また、百年戦争末期のノルマンディーとボルドーからのイギリス軍の撤退においても火砲は重要な役割を果たした。
 <(>大筒は、日本の戦国時代後期から江戸時代にかけての大砲の呼称であり、・・・戦国時代後期より用いられ、攻城戦や海戦において構造物破壊に威力を発揮した。<)>
 さらに15世紀後半には、石の弾丸に替わる鉄製の弾丸や、燃焼速度の速い粒状の火薬などの新テクノロジーの発達もあり、また小型で軽量ながら馬曳きで運搬可能な強力な攻城砲も出現した。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%A4%A7%E7%A0%B2

 西洋式火器の中で大砲が中国に伝わったのは、明がポルトガル勢力を広州湾から駆逐した嘉靖元年(1522)のことだとされる。
 このとき押収した大砲は中国製と異なり、子銃を母銃にはめ込む二段式の後装砲で、速射可能のうえ頑丈かつ命中率もきわめて高かった。
 明ではこれを仏郎機砲と呼び、翌年から自前で製造を開始する。
 一方、西洋式小銃もポルトガル人が<招>来したが中国では精妙に模倣できず、のちに戦国日本で改良された火縄銃(鉄砲)が倭寇経由であらためて伝えられたという。
 明ではそれを島銃とか鳥嘴銃(ちょうしじゅう)と呼んだが、その理由は鳥を撃ち落せるほど命中精度が高いためとか、形状が鳥の嘴に似ているためとか諸説ある。
 いずれにせよ、こうした西洋式火器をモデルに各種の銃砲が制作され、辺境守備軍の中にも積極的に取入れられた。・・・
 明の火器に再び変化が起こるのは、・・・16世紀末の豊臣秀吉の朝鮮侵略時である。
 捕虜となった日本兵から新式鉄砲を得た明軍は、旧来の鋳銅製から日本式の鍛鉄製に切り替え鳥銃の耐久性の強化に成功したとされる。」(173、175~177)

⇒軍事を軽視し、その結果として緩治と苛政が続いた支那が、軍事を軽視する贅沢が許されなかった欧州に、軍事、ひいては科学技術や社会制度、で後れをとる契機になったのが、ついに漢人文明化しなかったところの、元による14世紀の支那征服だった、と、言えそうですね。
 他方、第一次弥生モードの日本は、そのモードが続いた17世紀初頭までは、欧州に伍し続けた、と。(太田)

(続く)