太田述正コラム#14902(2025.4.24)
<檀上寛『陸海の工作–明朝の興亡』を読む(その27)>(2025.7.20公開)

 「・・・東南で活躍した戚継光<(コラム#11934)>と並び称される・・・東北の雄・李成梁<(注66)(コラム#12032)>(りせいりょう)(1526~1615)である。・・・

 (注66)「遠祖は朝鮮の出身。代々鉄嶺衛指揮僉事(せんじ)を世襲する家柄であった。40歳で家業をつぎ,功により遼東険山参将となり遼陽副総兵に進み,1570年(隆慶4)総兵官王治道が戦没すると遼東総兵官となった。彼は四方から健児を召募し将校を選んで軍を編成し選鋒軍と称した。この軍をもって74年(万暦2)建州女直の王杲(おうこう)を討って敗走させ,75年モンゴルの土蛮罕の軍を破り,以後20余年にわたり東西の戦いで武功をたてたが,しだいに奢侈におごり商民の利を奪ったので,弾劾を受け職を退いたが,1601年76歳で再び総兵官となり,90歳で没した。」
https://kotobank.jp/word/%E6%9D%8E%E6%88%90%E6%A2%81-148817

 李成梁集団は、家丁だけでも数千人を要する半独立の巨大軍閥であった。
 馬市の収入や商税・塩税を独占した他、毎年北辺に投下される軍費の銀両や軍事物資を横領することでその勢力は維持されていた。
 地位の保全を図って中央の要路にさかんに贈賄し、戦果を虚偽報告してたびたび恩賞にあうかるなど、あざとい手段で皇帝の信頼も獲得した。
 このため子弟・一門は高級武官に取り立てられ、家丁も要職に抜擢されたほどで、遼東から河北北部にかけては完全に彼の統制下にあった。
 辺境の交易ブームは辺外にも自立勢力を生み出した。
 当時、東北部のジュシェン<(女真)>は海西、建州、野人の三部に分れ・・・そのリーダーたちは明から都督・指揮使等に任じられて羈縻衛<(注67)>に組織されていた。

 (注67)「明朝は、女真・チベット・苗など、民族単位での統一政権を樹立していない諸民族に対して官職を授ける際、その規模の大小に応じ、衛所の指揮官の称号を授与した。このように、近隣諸民族の諸侯に対し名目的に称号を付与することによって成立した諸衛を「羈縻衛(きびえい)」という。
 羈縻衛所は、印璽とともに辞令と身分証を兼ねた勅書を民族・部族の長に与え、衛所の長に任命し成立したが、明からの内政干渉は無かった。また、<支那>内地の軍事組織と異なり、任命された長に朝貢の際の馬市での取引は認めたが俸禄は無く、さらに構成員に対する兵役も無かった。ちなみに、朝貢や馬市での取引には、勅書が必要であった。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%BE%88%E7%B8%BB%E6%94%BF%E7%AD%96

 彼らは定期的に北京に朝貢して朝貢貿易の恩恵にあずかる一方、開原・撫順・広寧等の馬市で貂の毛皮や朝鮮人参等を資本に交易を行なった。
 こうした交易によって頭角を現したのが建州部のヌルハチ(1559~1626。のちの清の太祖)である。
 彼は李成梁との間に持ちつ持たれつの関係を築いて、その庇護下で次第に勢力を拡張していく。
 清朝の興りが辺外の商業・軍事集団であったことは十分に注意されてよい。・・・」(177~178)

⇒南倭に対処した戚継光も北虜に対処した李成梁も、半ば私兵でもってそうしたというのですから、16世紀央以降の明はもはや国の体を為していなかったと言っても過言ではないでしょう。
 それを見た「南倭」たる織田信長/豊臣秀吉や「北虜」たるヌルハチが明に食指を動かしたのは当然過ぎるくらい当然のことだったのです。(太田)

(続く)