太田述正コラム#14904(2025.4.25)
<檀上寛『陸海の工作–明朝の興亡』を読む(その28)>(2025.7.21公開)

「商業と軍事とが不可分に結びついた自立集団は北辺だけではなく、東南沿海部にも存在した。
 その代表格が福建南部を根城とする<鄭芝龍(コラム#14163)>(ていしりゅう)(1604~61)である。・・・
 秀吉<の>・・・唐入り・・・<に関しては、>朝鮮はさておき、明に対してはせいぜい領土を割譲させて朝貢国とし、日明貿易を復活させるくらいの考えしかなかったのが正直なところではないか。
ところが緒戦の大勝利で秀吉の考えに変化が生じだす。
 肥前名護屋城で漢城(ソウル)陥落の報に接した秀吉は、すかさず明征服後のマスタープランを発表した。・・・
 いまだ明との交戦もない段階で、秀吉の野望は誇大妄想的に拡大していた。・・・
 当初、秀吉は日本という天下を統一したのち、朝鮮・明に侵攻して日本中心の「小天下」を拡充する算段であった。
 その基盤はあくまでも日本であり、朝鮮・明は日本の周縁に過ぎない。
 だが北京遷都を構想した時点で基盤は中国に移り、今度は日本そのものが周縁となる。
 つまり日本中心の小天下の拡大から、中国中心の「大天下」の乗っ取り計画に変更されたということだ。
 秀吉の夢は大天下の天下人(皇帝)へと膨張したのである。
 じっさい、この計画は最初はかなり現実味を帯びていた。」(179~181)

⇒第一に、秀吉にとって、最初から、「侵攻対象は明国だけではなかった。「南蛮国」(ルソン・マカオ・ゴアなどのポルトガルやスペイン領)をも支配下に置く構想を示していたのだ。また、大陸を制覇した暁には、後陽成天皇を北京に移して皇帝とし、日本においては後陽成天皇の皇子・良仁親王<(注68)>か、智仁親王<(注69)>を帝位につける野望を秀吉は持っていた。さらに、秀吉は、寧波(<支那>浙江省)を拠点とし、東南アジアやインド侵攻の指揮をとることを目論んでいた。」
https://toyokeizai.net/articles/-/704672?display=b
のであり、「計画<が>変更されたということ」などありえないし、第二に、秀吉が支那であれ、どこであれ、天下人ではあっても天皇/皇帝になろうとしたこともないし、第三に、「この計画は最初は」だけでなく、それほど時を置かず、ヌルハチが明と対峙するようになることからして、そもそも、客観的に「現実味を帯びていた」、のです。

 (注68)覚深入道親王(1588~1648年)。「後陽成天皇の第1皇子。母は典侍・中山親子。仁和寺第21世門跡。出家前の諱は良仁親王(かたひとしんのう)。・・・
 生後間もない頃から当時の天下人豊臣秀吉はこの第一皇子を次の天皇にする構想を持っていた。このため朝廷内でも事実上の儲君<(ちょくん。もうけのきみ)>として扱われ、「若宮」と呼ばれていた。天正20年(1591年)5月18日、秀吉が関白豊臣秀次にあてた書簡では、朝鮮出兵が成功して明を征服した暁には後陽成天皇を北京に遷して、「若宮」か八条宮智仁親王を日本の天皇にするという構想を述べ、同日には所司代前田玄以にも同様の意向を伝えている。・・・1594年6月・・・には親王宣下を受け、良仁親王と名乗った。2年後には亡くなった正親町上皇の御所が良仁親王に与えられている。
 しかし後陽成天皇は良仁親王を後継から外す動きを見せ始める。慶長3年(1598年)5月頃には三宮と呼ばれていた良仁親王の弟が「若宮」と呼ばれるようになり、良仁親王は「親王御方」と呼ばれるようになった。秀吉が死亡した後の9月7日には秀吉の命として三宮を仁和寺に入室させるよう要請されたが、天皇は従わなかった。10月18日、後陽成天皇は譲位の意向を豊臣政権側に伝え、10月21日には良仁親王ではなく弟である八条宮智仁親王に譲位したいという旨を豊臣政権側に伝えた。この時は大老徳川家康や元左大臣近衛信輔は後陽成の意思を尊重するとしたが、元関白九条兼孝をはじめとする摂家衆、豊臣政権の大老前田利家・奉行の前田玄以らは良仁親王に譲位するよう主張した。後陽成の真意は三宮を即位させようとするものであったが、11月18日には豊臣政権を代表した家康から譲位を思いとどまるよう意向が伝えられた。
 それでも良仁親王は一応儲君として扱われていたが、・・・1600年・・・関ヶ原の戦いが家康の勝利に終わった後の11月24日には良仁親王の御所にある番が廃止され、12月21日には三宮に親王宣下が行われ、政仁親王と名乗った。・・・1601年・・・、良仁親王は仁和寺真光院に入室し、政仁親王が儲君に定められた(後の後水尾天皇)。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%A6%9A%E6%B7%B1%E5%85%A5%E9%81%93%E8%A6%AA%E7%8E%8B
 (注69)八条宮智仁親王(1579~1629年)。後陽成天皇の同母弟。「天正14年(1586年)、今出川晴季の斡旋によって豊臣秀吉の猶子となり、将来の関白職を約束されていた。しかし天正17年(1589年)、秀吉に実子の鶴松が生まれたために解約となり、同年12月に秀吉の奏請によって八条宮家を創設した。
 天正19年(1591年)1月、親王宣下を受け<る>・・・。慶長5年(1600年)7月、細川幽斎から古今伝授を受け、寛永2年(1625年)12月これを甥の後水尾天皇に相伝し、ここにいわゆる御所伝授の道が開かれた。さらに造庭の才にも優れ、元和6年(1620年)から家領の下桂村に別業を造営する。この桂御別業が現在の桂離宮であり、八条宮は後に桂宮と呼ばれた。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%85%AB%E6%9D%A1%E5%AE%AE%E6%99%BA%E4%BB%81%E8%A6%AA%E7%8E%8B

 檀上に限らず、日本史家の唐入り論がかくも出来が悪いのは、口幅ったいけれど、彼ら、当時の世界情勢の勉強が必ずしも十分ではない上に、日蓮主義への理解が浅薄だからでしょうね。(太田)

(続く)