太田述正コラム#14906(2025.4.26)
<檀上寛『陸海の工作–明朝の興亡』を読む(その29)>(2025.7.22公開)
「・・・秀吉が第二次出兵(慶長の役・丁酉倭乱)に踏み切ったのは、冊封以外すべて彼の要望が拒絶されていることを知ったからである。
面子をつぶされ激怒した秀吉は、怒りの矛先を明ではなく朝鮮に向けた。
しかも出兵は朝鮮への制裁という色彩を帯びたため、日本軍の行動は残虐性をきわめた。
⇒このような、典拠抜きのしかも具体性を欠いた叙述はいかがなものでしょうか。
「藤木久志は「老若・男女・僧俗の区別なく撫で斬りにせよ」との秀吉の上意があ<った>」としています
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%80%B3%E5%A1%9A
が、この「上意」の典拠を知りたいところです。(太田)
戦功の証しとして耳そぎ、鼻そぎが行われたのもこのときである。<(注70)>
(注70)「文禄・慶長の役では首をそのまま持ち帰ることが難しいことや、人身売買目的での誘拐(人取り)の抑制として、豊臣秀吉が耳や鼻の量が一定に達した者(一定の戦功を挙げた者)から人取りを許可したため大規模に行われた。」(上掲)
「それらの鼻は秀吉の軍目付によりきっちり勘定され、各大名家に受取状が発給されている。それらを集計すると、吉川家18350、鍋島家5444、黒田家8187、といった具合に、端数まで記録されている。」←耳は?(太田)
https://toyokeizai.net/articles/-/74916?page=3
⇒戦功の証しとしての耳そぎと鼻そぎが、文禄の役の時には行われなかったとは考えにくいけれど、慶長の役に関してだけ、京都に耳塚とも鼻塚とも呼ばれる、「戦功の証として討取った朝鮮・明国兵の耳や鼻を削ぎ持ち帰ったものを葬った塚」が存在する
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%80%B3%E5%A1%9A 前掲
ことは確かです。
なお、耳そぎ、鼻そぎに係る、支那と日本における歴史
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%BC%BB%E5%89%8A%E3%81%8E
には、興味深いものがあります。(太田)
もとは大天下の支配を目指した朝鮮出兵が、最後は朝鮮半島南部での報復戦に矮小化されたところに、豊臣軍事政権の限界を見て取ることができよう。
この無謀な侵略戦争は、・・・秀吉の死によってようやく終息することになる。」(184)
⇒「慶長の役・・・の作戦目標は、諸将に発せられた2月21日付朱印状によると、「全羅道を残さず悉く成敗し、さらに忠清道やその他にも進攻せよ。」というもので、作戦目標の達成後は、慶尚道沿岸部へ撤収し仕置きの城(倭城)を築城し、在番の城主(主として九州の大名)を定めて、他の諸将は帰国するという計画が定められた(さらに、その後の慶長4年(1599年)に、再出兵による大規模な攻勢も計画されていた。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%96%87%E7%A6%84%E3%83%BB%E6%85%B6%E9%95%B7%E3%81%AE%E5%BD%B9
ことから、秀吉の頭の中では、慶長の役は戦略拠点確保のための戦いに過ぎず、唐入り計画そのものは堅持されていたと言えるのであって、そもそも、文禄の役後、秀吉が和議に応じようとしたのも、しばらく日本兵を休ませた上で和議を破棄して唐入りの貫徹を目指すつもりであったからだと私は見ています。
従って、このくだりの檀上の筆致は理解し難いと言うほかありません。
私がいまだに解せないのは、どうして、小西行長、ひいては、石田三成、が、和議の明側の使者持参の文書を偽造して持参させるか持参した文書をすり替えるかして、偽りの和議の貫徹を図らなかったのか、です。(太田)
(続く)