太田述正コラム#14908(2025.4.27)
<檀上寛『陸海の工作–明朝の興亡』を読む(その30)>(2025.7.23公開)

 「・・・「朕は天子である。富は四海の内(天下)を領有して、普天の下、王土にあらざるはない。天下の財は皆な朕の財である」(『召対録』)。
 こう嘯く万暦帝は、自己の「大私」を前面に押し出し官僚たちと真っ向から対立した。
 それを象徴的に示すのが立太子をめぐる騒動、いわゆる国本問題である。・・・
 <この>国本問題で万暦帝の怒りを買い、免官されて故郷の江蘇省無錫に戻ったのが吏部郎中の顧憲成<(注71)>(1550~1612)である。・・・

 (注71)「万暦32年(1604年)に・・・東林書院を再興<す>・・・る。・・・
 顧憲成は、・・・陽明学・・・を斥け、・・・朱子学を奉<じ、その>講義の合間に政治を批判し官界の人物を論じたので、現状に不満を持つ士大夫をひきつけ、為政者には「東林党」として排斥される勢力をつくりあげた。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%A1%A7%E6%86%B2%E6%88%90
 「<彼自身を含む>いわゆる「東林八君子」を有名にするが、朝廷内で魏忠賢が権力を握ると権力闘争に巻きこまれ東林党が排斥されると、書院の存在自体が問題視され、天啓5年(1625年)に全国書院の取り壊しの詔が発せられ、東林書院は依庸堂などが壊されることとなる。崇禎帝が即位すると東林党は復権され、東林書院の修復が命じられる。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%9D%B1%E6%9E%97%E6%9B%B8%E9%99%A2

 万暦帝は万暦24年(1596)以来全国に宦官を派遣し、鉱山の開発や商税の増徴など苛烈な収奪を行った。
 これに断固異を唱えたのが<顧憲成が興した>東林党である。・・・
 皇帝権力をバックに上から社会を統制した張居正の政治手法と異なり、東林党は下から順次秩序を積み上げその統括者として皇帝を位置づけた。
 これを国家ヘゲモニーと郷村(郷党)ヘゲモニーの対抗と捉え、専制国家に対する社会の力量の高まりを明末に見出そうとする見解も存在<は>する。・・・
 <即位後>一カ月も経たずに・・・急死した・・・泰昌帝(在位1620)<を経て>・・・明朝随一の暗君といわれる・・・天啓帝(在位1620~27)<が>・・・即位する。・・・
 その帝を抱き込み権勢を振るったのが宦官の魏忠賢<(注72)>であった。・・・

 (注72)1568~1627年。「天啓帝の乳母客(うばきゃく)氏と私通し、天啓帝が即位するとその寵(ちょう)を得、まったくの無学にもかかわらず司礼秉筆太監(しれいへいひつたいかん)(宦官の最高職)となった。当時、東林党・非東林党の政争が激しく、非東林党は自衛のために魏忠賢と結び、卑劣な手段をもって東林党の弾圧を図った。忠賢はまず東厰(とうしょう)(秘密警察)を兼督して政治を専断し、口実を設けては東林派を投獄し政治から追放した。やがて粛寧(しゅくねい)侯に封ぜられると、スパイを放って暴威を振るい、宮廷の実権を握った。そのため在廷の官僚は、その下風にたっておもねる者が多く、ついには彼を生神として祀る者も現れ、全国各所に彼の生祠(せいし)が建てられた。しかし、1627年、天啓帝が崩じ崇禎(すうてい)帝が即位すると、彼を弾劾する者が全土に満ち、ついに自ら縊死した。死後さらに磔刑に処せられ、愛人客氏は笞刑(ちけい)で殺された。」
https://kotobank.jp/word/%E9%AD%8F%E5%BF%A0%E8%B3%A2-51017
 「天啓7年(1627年)に天啓帝が崩御し<た頃>・・・には満洲のヌルハチが後金を建国し東北に勢力を拡大していたが、たとえ後金相手に負けたとしても魏忠賢や側近に賄賂を贈れば勝ったと誤魔化す事が出来た<ため、>ヌルハチの勢力は抑えられないものになっていった。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%AD%8F%E5%BF%A0%E8%B3%A2

 反東林派は魏忠賢と手を組み、ここに東林党と閹党(えんとう)(宦官党)との対立の構図が定着する。」(188~193)

⇒余りにもひどい天啓帝当時の明亡国の惨状に言葉を失います。
 繰り返しになるけれど、文禄・慶長の役当時の万暦帝治下の明は既に大同小異の亡国状況にあったのであり、信長流日蓮主義を挫折させた主人殺しの明智光秀、や、秀吉流日蓮主義を挫折させた後陽成天皇/近衛前久/島津義久の日蓮主義三人衆とその走狗となった石田三成、らの罪は、非欧米世界の復興を400年近くも遅らせてしまったという点で全人類に対する罪を犯した、と、つくづく断じたくなります。
 但し、近衛家/島津氏に関しては、倒幕維新を行って、日蓮主義戦争を再開させたところ、その戦争が勝利のうちに終息されたことをもってその罪一等を減じなければなりませんが・・。(太田)

(続く)