太田述正コラム#14910(2025.4.28)
<檀上寛『陸海の工作–明朝の興亡』を読む(その31)>(2025.7.24公開)
「・・・「東林七君子」の一人で吏部員外郎であった周順昌<(注73)>は、在職中は清廉剛直で知られ、天啓年間に故郷の蘇州に帰郷してのちも魏忠賢を非難して止まなかった。
(注73)しゅうじゅんしょう(1584~1626年)。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%91%A8%E9%A0%86%E6%98%8C
自身は清貧であったが郷里の民には進んで善行を施し、冤罪や庶民の利害に関わることがあれば代わって役所と掛け合ったので、士民はみな彼の行いを深く徳としたという。
天啓6年(1626)3月、魏忠賢は周順昌の罪をでっち上げて逮捕を命じた。
開読(勅旨を被疑者と公衆に宣読する儀式)の行われる日、蘇州の西察院(按察使司の役所)には生員や庶民数千人が押しかけ周順昌の無実を訴え気勢を上げた。
やがて役人との小競り合いから暴動が勃発し、役人の一人が殴り殺された。・・・
周順昌は人知れず北京に送られ拷問を受けて獄死する。
自首した・・・5人の庶民も暴動首謀者として斬刑に処せられ、生員5名も資格を剥奪された。・・・
「開読の変」と称されるこの事件は民変<(注74)>の中でも特異なケースであっ<て、>周順昌と一面識もなく利害関係も持たない庶民が、彼のために無欲無私の行動に起ち上がったのである。」(194~195)
(注74)「<支那>における民衆暴動。歴史的には明末から清初の都市の民衆を主体とする暴動をいう。・・・万暦帝は,銀を獲得するために各地の都市や鉱山に宦官を派遣して,流通過程に大増税を行った(鉱・税の禍)。このため1599年以降,臨清,蘇州,武昌などでは,中央から派遣された宦官を対象に商工業者や読書人による反宦官闘争が頻発した。・・・なかでも万暦 29 (1601) 年蘇州に起った織傭 (しょくよう) の変や,天啓6 (26) 年同じく蘇州に起った開読の変は有名である。・・・
背景には,商品流通が拡大し,結節点となる都市の役割が重要となる一方,都市民衆の意識も高まったことがあげられる。・・・
先頭に立ったのは多くは生員であった。民変は実は士変だ,という声のあったゆえんである。」
https://kotobank.jp/word/%E6%B0%91%E5%A4%89-140168
「織傭の変<とは、>・・・1601年(万暦29)に絹織労働者(織傭)を主体として,<支那>の蘇州でおこった民衆の反税闘争。宋・元時代以来,蘇州では絹織物業が発達し,17世紀初めには,民営の機戸だけで数千戸,織工と染工はおのおの数千人を数えるにいたった。これに対し,財政不足に悩む明朝は,宦官を派遣して徴税を強化しようとした。蘇州と杭州を担当したのは織造太監孫隆であるが,孫一味による収奪に反対して,6月3日,2000余人の労働者は行動をおこし,規律正しい組織的な闘争をくりひろげ,孫隆の追放に成功するとともに,重税で倒産にひんしていた機戸のために減税をかちとって,都市手工業労働者の力量を示した。事件後,首謀者として自首,のちに釈放された葛成は葛賢として尊敬され,彼の墳墓は今も蘇州に存在する。」
https://kotobank.jp/word/%E7%B9%94%E5%82%AD%E3%81%AE%E5%A4%89-1175468
⇒広義の唯物史観の影響下にあると思われる檀上の筆致に惑わされてはならないのであって、「注74」の引用最終センテンスの執筆者(平凡社「世界大百科事典(旧版)」)が示唆しているように、皇帝によって資格が与えられた非現職官僚たる生員達が、現職官僚達の先兵として、官僚資格無き宦官の権力者達を排除するために、時に応じて庶民達をも扇動して使った、ということでしょう。
元凶は、宦官の中から権力者達を輩出させてしまったところの、私利を追求し遊蕩に耽る頽廃した皇帝なのですから、排除すべきはかかる皇帝でなければならず、そのためには、せめて、当該皇帝を挿げ替えるか、易姓革命を目指すべき、だった、というのに・・。(太田)
(続く)