太田述正コラム#14912(2025.4.29)
<檀上寛『陸海の工作–明朝の興亡』を読む(その32)>(2025.7.25公開)
「・・・崇禎13年(1640)・・・の秋、四川から河南に入った李自成<(注75)>は翌年1月に洛陽を襲撃し、当地に分封されていた万歴帝の愛息、・・・福王朱常洵<(注76)>を血祭りに上げた。
(注75)1606~1645年。「現在の陝西省<出身で、後に>・・・李継遷(西夏の初代皇帝李元昊の祖父)の末裔を称した。・・・
福王は万暦帝に溺愛され、その贅沢により多額の税金が浪費されたために民衆の恨みを買っていたのである。その倉庫から1割の食料と財物を民衆に渡した。また、・・・知識人を陣営に取り込んでいくことになる。
李自成はさらに開封を落とし、崇禎16年(1643年)に襄陽にて大元帥、続いて新順王と名乗って六部などの国家としての制度を整え、西安を陥落させた。崇禎17年(1644年)に西安に入った李自成は、国号を順(大順)、元号を永昌と定め、この地を国都に定め大順王を称した。2月には李自成軍は北京を目指して北伐を開始し、3月に北京を陥落させて崇禎帝を自殺に追い込み、明を滅ぼした。李自成の軍が北京城に入城した際には、市民のみならず官兵まで崇禎帝を見捨て、隊列をつくってこれを歓迎したという。
北京に入城した李自成たちは、ここでいよいよ<支那>全土の皇帝となるための諸手続きや儀式の用意を始めた。入城後の李自成軍は、高官、資産家から資金を没収し殺人鬼として有名な張献忠の軍が合流したこともあり、厳正であった軍規もすっかり緩み、略奪・強姦・殺人が横行していた[要出典]。その頃、満洲族の清に対して前線の拠点である山海関を守っていた呉三桂が、清に投降していた。
間もなく、李自成軍はドルゴンと呉三桂率いる清と明遺臣の連合軍と激突して大敗し、たちまち北京から撤退した。北京入城から40日という短い天下であった。・・・その後、李自成は西安・通城と相次いで逃れるが、永昌2年(1645年)、通城の九宮山にて現地の農民の自警団により殺された。・・・
1944年になって、郭沫若が李自成を起義軍として再評価する論を唱えた。毛沢東も当初は流賊説を採っていたが、郭沫若の論をうけて、李自成を農民反乱指導者として評価する見解を出したことから、李自成の再評価と順朝の研究が進展した。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%9D%8E%E8%87%AA%E6%88%90
(注76)しゅじょうじゅん(1586~1641年)。「貴妃鄭氏は宮中で万暦帝に最も寵愛された后妃であった。万暦帝は彼女が生んだ子である朱常洵を皇太子として育てようと考えたが、大臣たちは皇長子朱常洛を懸命に支持したため、朱常洵は皇太子になれなかった。万暦帝はその代わりに、凄まじい贅沢を常洵にさせた。例えば朱常洵の結婚式の際には30万両という金額を使っている。このため常洵は、重税と困窮にあえぐ民衆の怨みを買うことになり、これが彼の最期へと繋がっていく。
明に対し反乱を起こした李自成は、1641年に洛陽を占領した後、西関の周公廟で「福禄宴」という宴会を開き、その中で朱常洵は処刑された。その後、体重が180kgあった朱常洵の肉が一塊ずつ切り取られて、皇室の庭園で飼われていた鹿の肉と煮込まれた。李自成はその肉を部下に食べさせた。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%9C%B1%E5%B8%B8%E6%B4%B5
当時、全国で10万人以上に膨れ上がった宗室の人口は地方財政と民衆生活を圧迫し、権力を笠に着た彼らの専横な振る舞いは社会矛盾を激化させていた<のだ>。・・・
この時点で、中国の内外には三つの王朝が鼎立することになった。
大順、大清、大明の三王朝で、それぞれ独自の性格を持っていた。」(205~206)
⇒檀上による、この三王朝の性格付けを紹介する気にもなりません。
私に言わせれば、それぞれ、強盗集団、山賊集団、マフィア集団、が、政府を僭称し、普通人達に君臨し、搾取していた、といったところでしょうか。(太田)
(続く)