太田述正コラム#14914(2025.4.30)
<檀上寛『陸海の工作–明朝の興亡』を読む(その33)>(2025.7.26公開)

 「・・・最初に動いたのは大順政権であった。・・・
 <大明政権の>崇禎帝は・・・自ら命を絶った。
 享年34。・・・
 死に臨んでなお彼は亡国の責任は臣下にあると考えていた。
 北京陥落の報は、山海関の外で<大>清<政権>軍に対峙する・・・呉三桂<(注76)>のもとにいち早く届いた。

 (注76)1612~1678年。「呉家はもともと高郵(江蘇省)の出自だったが、父の呉襄は武官として遼東に居住することが多く、遼東に籍を移していた。遼東で生まれた呉三桂は、父の功績によって武将として取り立てられてから出世を重ね<たもの。>」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%91%89%E4%B8%89%E6%A1%82

⇒「注76」から分かるように、呉三桂も、また、「農民の子で少年時代から騎射が得意で20歳前後で駅卒・・明は駅站と呼ばれる駅伝制度を敷いていた。駅卒はその労働者である。・・になった」李自成
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%9D%8E%E8%87%AA%E6%88%90
も、宦官でこそなかったけれど、文官系でもない、方や軍人、方や馬の骨であり、肝心な時に宦官も文官系も右往左往するだけだったようですね。(太田)

 彼はいったん<大順政権の>李自成への降伏を決意するが、愛妾が賊軍に奪われたことを知って翻意し、意想外の行動に打って出る。
 何と今まで敵対していた清軍と手を結び、来攻する大順軍に一致協力して立ち向かったのである。・・・
 黄宗義<(注77)>は、暗夜が明けて聖王が現れることに期待して『明夷待訪録』を著した。

 (注77)1610~1695年。「郷里の子弟を組織して義勇軍を結成、清朝支配に抵抗した。彼は魯王朱以海の政権に協力し、1649年には長崎を訪れ日本の江戸幕府に反清の援軍を要請している(この時の一部始終は『日本乞師記』にまとめられている)。この時の要請は果たせず、結局反清復明の運動は絶たれてしまい、以後は故郷で著述に明け暮れる日々を送った。・・・
 <そして、>陽明学右派の立場から実証的な思想を説き、考証学の祖と称された。・・・
 清の乾隆帝によって『明夷待訪録』などの著書が禁書となるなどの迫害を受けている。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%BB%84%E5%AE%97%E7%BE%B2

 彼はその中で宰相の復活や学校の議会化、科挙制度の改革等を提案し、それらを通じて皇帝の独裁権を掣肘するよう主張する。
 さらに自己の「大私」のみ考え万民の利害を顧みない君主は、君主設置の本位に反するとして激越な口調で糾弾した。

⇒禁書にされた著作があったというだけで、本人は大往生していて、家族や子孫が罰せられたわけでもない一方、明の当時に『明夷待訪録』的なものを書いておれば、無事では済まなかったことでしょう。
 明よりも清初の方が、遥かに為政者達はまともだったわけです。
 そうである以上、『明夷待訪録』は繰り言でしかなかった、と、言われても致し方ありますまい。(太田)

 また、・・・顧炎武<(注78)>によれば亡国は王朝交替にすぎないが、亡天下は仁義道徳に基づく中華文化の消滅を意味し、匹夫(庶民)にも責任があるという。

 (注78)1613~1682年。「郷里の子弟を組織して義勇軍を結成して清朝支配に抵抗して、各地を流浪しては反清の活動に積極的に携わっ・・・た。・・・
 陽明学を批判し、世に有益な経世致用の学を追究した。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%A1%A7%E7%82%8E%E6%AD%A6

 その匹夫の生活保障を担う郡県の地方長官も、中央(皇帝)の顔色をうかがうばかりで民生には関心をはらわず、結果として民衆反乱を招くことになる。
 そこで長官に当地出身者を当てて終身制・世襲制にし、周の封建制のように地方を領有させれば、土地や民衆への愛着も生まれて民生も豊となり国勢も強固になるに違いない。
 要は「封建の意を郡県の中に寓す」べきだというのである。」(207~208、214~215)
⇒負け犬の遠吠え的に、あからさまではなくとも、要は、黄宗義は欧州、顧炎武は日本、の政治体制を範にとって漢人文明の刷新を唱えたわけですが、欧州と日本は、どちらも南明勢力が軍事支援を求めた先であり、あえて言えば、どちらも、本心から唱えたというよりは、支援を求める(求めた)相手に対するリップサービスに過ぎなかったのではないでしょうか。
 (「南明勢力<は、>・・・ローマ教皇庁まで乞師<(きっし)、すなわち、軍事支援を求めたところ>の使者を派遣したことがあった」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%97%A5%E6%9C%AC%E4%B9%9E%E5%B8%AB
ところ、例えば、「南明最後の皇帝永暦帝の生母<の>・・・昭聖太后<は>・・・、カトリックに入信しマリア(Maria)という洗礼名を受け<た人物だ。>」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%98%AD%E8%81%96%E5%A4%AA%E5%90%8E )

(続く)