太田述正コラム#14916(2025.5.1)
<檀上寛『陸海の工作–明朝の興亡』を読む(その34)/渡辺信一郎『中華の成立–唐代まで』を読む(その1)>(2025.7.27公開)
「・・・統制的な明の朝貢一元体制に比べて清の対外政策はかなり大様で、東アジア諸国も独りよがりの中華を築いて清に負けじと張り合った。
小天下が大天下に収斂・凝縮されて成立したのが明初の朝貢一元体制であるならば、その体制がいったん明末に弛緩した後、民間交易の認められた清代には大天下と小天下(あるいは小中華)がゆるやかに連携・並立することで、新たな東アジアの国際秩序が構築されたのである。
国際秩序の柔構造と同じく、清は国内的にも明の「固い体制」を排して「柔らかい体制」へと軌道修正を図ったとされる(岸本美緒<(注79)>氏の表現)。
(注79)1952年~。東大文(東洋史学)卒、同大院博士課程中退、同大東洋文化研究所助手、お茶大文教育学部専任講師、助教授、東大文助教授、教授、お茶大研究科教授、同大名誉教授。旧姓中山。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%B2%B8%E6%9C%AC%E7%BE%8E%E7%B7%92
明初に施行された厳格な戸籍制度や里甲制のような統制的な郷村組織はなくなり、明末に成長した郷紳や宗族など在地勢力の主導する民間秩序に一部依拠して柔軟な統治が行われた。」(219~220)
⇒檀上も岸本も、自分が人生をかけて選んだ研究対象について、それを悪しざまに描写したくないという心理が働くのかもしれませんが、明や清の政治体制に対する姿勢が甘過ぎるのではないでしょうか。
取り敢えずの考えである旨お断りしておきますが、私には、清の初期の政治体制は、単に、漢以来の漢人文明における正統的な緩治体制への回帰のように見えます。
それは、ぶっちゃけて言えば、被治者からほどほどに収奪しつつ、ほどほどだからこそその見返りに何もやってあげない、という体制です。
それに対して、明の政治体制は、やってやるフリをしつつ収奪の限りを尽くす、という体制であった、とも。
皇帝独裁制の下での「固い体制」など、皇帝が本当に独裁することなんぞおよそ不可能である以上、結果的には緩治の継続でしかないのであって、自ずからやってやるフリをしてお茶を濁すことにならざるをえないはずだからです。
しかも、なまじ、政権がやってやるフリをするために、気まぐれで恣意的に介入してくることがあるために、一族郎党内における自治が歪められてしまいがちであったのではないでしょうか。
仮に、この私の考えが正鵠を射ているとすればですが、どちらも苛政体制ながらも、総じて、清初の政治体制の方が明の政治体制よりも被治者からすれば相対的にマシであった、ということになりそうです。(太田)
(完)
--渡辺信一郎『中華の成立--唐代まで』を読む(その1)--
1 始めに
私は、「岡本隆司『物語 江南の歴史–もうひとつの中国史』を読む」シリーズ(コラム#14038~14136)を一年ちょっと前に書いているところ、この本と、丸橋充拓『江南の発展–南宋まで』、とを混同していたことに、つい最近気付いたという始末なのですが、檀上寛『陸海の工作–明朝の興亡』を読んだ時に、これが、渡辺信一郎『中華の成立–唐代まで』、丸橋充拓『江南の発展–南宋まで』、古松崇志『草原の制覇–大モンゴルまで』、檀上寛『陸海の工作–明朝の興亡』、岡本隆司『「中国」の形成–現代への展望』、からなる、新しい編集方針に基づく支那史新書五部作の一冊であることを知り、急いで、渡辺信一郎『中華の成立–唐代まで』、古松崇志『草原の制覇–大モンゴルまで』、檀上寛『陸海の工作–明朝の興亡』、岡本隆司『「中国」の形成–現代への展望』、を買って読み終え、改めて、私の同じ視点の下、私の同じ問題意識を持って、それぞれをシリーズで取り上げていくつもりだったのですが、更に、丸橋充拓『江南の発展–南宋まで』も買って読み、『中華の成立–唐代まで』の次に(簡潔にしたいと思いますが)シリーズで取り上げるべく予定変更をすることになったことを申し上げておきます。
(続く)