太田述正コラム#14918(2025.5.2)
<渡辺信一郎『中華の成立–唐代まで』を読む(その2)>(2025.7.28公開)

 「私の同じ視点」、「私の同じ問題意識」とは、それぞれ、日本列島でのプロト日本文明/日本文明の担い手も、支那での漢人文明の担い手も、主体は水田稲作文化を生んだ江南人で同じであって、漢人と日本人は一卵性双生児的な間柄だというのに全く異なった文明を形成した、という視点であり、概ね弥生的縄文人であった江南人が、どうして、支那では弥生的縄文人たる治者と普通人たる被治者に分化し、日本ではまず弥生的縄文人たる治者と人間主義者たる被治者に、次いで、縄文的弥生人たる治者と人間主義者たる被治者に、分化したのか、という問題意識です。
 なお、渡辺信一郎(1949年~)は、[京都教育大学教育学部卒、]京大博士課程単位取得退学、京都府立大に採用され、後に教授、同大学長を務め、「『日本書紀』に記載されていない600年の最初の遣隋使について、その実在を傍証する新たな論点として、『隋書』や『日本書紀』に記述された607年の遣隋使の帰国歓迎式典の描写を指摘し・・・た」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%B8%A1%E8%BE%BA%E4%BF%A1%E4%B8%80%E9%83%8E_(%E4%B8%AD%E5%9B%BD%E5%8F%B2%E5%AD%A6%E8%80%85)
ところの、「隋唐時代を中心<とした>中国古代史・音楽史の研究」者
https://rijtm.kcua.ac.jp/researchers/watanabe-shinnichiro.html ([]内も)
であり、この2019年の著書の「叙述にあたってもっとも重宝した文献は、参考文献にはあげなかったが、司馬光<(注1)>の『資治通鑑』249巻と趙翼<(注2)>の『廿二史箚記(にじゅうにしさっき)』36巻であ<り、>両著ともに中国通史にかかわる名著である<ところ、>いちいち注記してはいないが、その記事や見解を借用し、また批判的にとりあげたところが多多ある」
https://www.iwanamishinsho80.com/post/choyoku
とのことだ。

 (注1)1019~1086年。「北宋時代の儒学者、歴史家、政治家。・・・祖先は西晋の高祖宣帝・司馬懿の弟司馬孚だといわれている。歴史書『資治通鑑』の編者として著名。政治面では旧法派の領袖として王安石ら新法派と対立した。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%8F%B8%E9%A6%AC%E5%85%89
 (注2)ちょうよく(1727~1814年)。「清代の・・・考証学者。・・・商人の家に生まれたが、乾隆帝に認められ軍機処の章京を務めた。その後、乾隆26年(1761年)、進士に及第する。・・・。本来は殿試一甲第一(状元)であったはずが、偶々一緒に殿試を受けた者の中に災害被災地域出身の受験者であった王杰(1725-1805)という者がおり、恩賜によって特別に一甲第一待遇を受けることになり、趙翼は第三位(探花)に合格順位を下げられた。趙翼は宰相への道を歩くはずが、合格順位を下げられたために翰林院勤務となってしまった。翰林院では『通鑑輯覧』を編纂した。その後、辺遠の地方官を歴任。治績は挙げたものの報いられず、失望して母の病気看護のため、官途を去り、帰郷して『二十二史箚記』などの史学の著述に専念した。乾隆52年(1787年)、旧知の仲の閩浙総督李侍堯(中国語版)の幕僚の一員となり、林爽文の乱の平定で功績を上げるが、特に褒美も受けず、その後は、安定書院の主講として著述に専心した。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%B6%99%E7%BF%BC

2 『中華の成立–唐代まで』を読む

 「・・・梁啓超は、こう述べている。
 わたくしが最も恥ずかしく思うのは、わが国には国名がないということである。・・・中国、中華と言えば、・・・自尊・自大で、大方の批判を受けることを免れない<が、>・・・やむを得ず、我われが使い慣れていることばを用いて、中国・・・と称する。やや尊大ではあるが、各民族がその国を尊ぶことは、現今、世界の通則である。・・・
 中国からの要望を受けて、<日本において>支那史が一斉に中国史に改められるのは、第二次世界大戦における日本の敗戦以後である。」(v~vi)

⇒私が故梁啓超にも存命の渡辺にも強く言いたいのは、宋や清といった諸王朝名、中華民国、そして中華人民共和国、こそ国名であって、支那において確立した漢語として存在しなかったのはその地域名であったということ、と、地域名としては、秦に由来するChina、を、支那人を除く全ての人々が、一貫してChina(支那)を、支那の地域名として用いてきた
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%94%AF%E9%82%A3
上に、日本以外では現在でも用い続けている(典拠省略)のですから、日本でも支那を支那の地域名として復活させるべきだ、ということです。(太田)

(続く)