太田述正コラム#14920(2025.5.3)
<渡辺信一郎『中華の成立–唐代まで』を読む(その3)>(2025.7.29公開)


[著者のバイオ]

 実は、本著書の奥付にも、また、奥付を参照したと思われる著者のウィキペディア
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%B8%A1%E8%BE%BA%E4%BF%A1%E4%B8%80%E9%83%8E_(%E4%B8%AD%E5%9B%BD%E5%8F%B2%E5%AD%A6%E8%80%85) 前掲
にも、著者の卒業大学が出て来ない。
 また、このウィキペディアには、著者の現職・・京都市立芸術大学<(注3)>日本伝統音楽研究センター所長・・も出て来ないのだが、この京都市立芸術大学日本伝統音楽研究センターのHP
https://rijtm.kcua.ac.jp/researchers/watanabe-shinnichiro.html ※ 前掲
にだけ、恐らく同大学の方針に従ったのだろうが、「1949年京都市生まれ<で>1971年京都教育大学教育学部卒業」と出てくる。(上掲)

 (注3)「日本最古の芸術系大学<。>・・・1880年(明治13年)に開学した京都府の京都府画学校が起源。6月に太政大臣三条実美により「日本最初京都画学校」と命名され、7月に京都御苑内の旧准后里御殿仮校舎で開校式が行われた。
 背景には、東京奠都によるパトロンの喪失、文明開化による伝統文化の冷遇などから、円山派や四条派といった京都画壇の諸派が危機に陥ったことにある。美術を立て直すために市民の間から美術家養成機関としての近代的な「学校」を作ろうという声が高まり、その熱意の結果創立されたものである。これには同じく文明開化で低迷していた京都の主力産業である伝統工芸の近代化を支援するため、密接な関係にある美術界を盛んにする目的もあった。
 当時、京都の芸術界を取り巻く環境は厳しく、幕末の元治元年(1864年)、・・・禁門の変に端を発した戦火は市中を覆い、約2万7千軒の家屋が焼失した。政治的混乱で復興も進まないまま、江戸幕府は消滅。明治新政府の発足とともに首都の座は東京に移り、京都市域の人口は35万人から20万人あまりに激減したとされる。国の絵師たちも打撃を受け、京都は朝廷や公家など有力者の仕事を請け負う全国の絵師のほか、数多くの町絵師を抱えていたが、人口減と経済低迷で絵の買い手がなくなった。染色の図案や測量図面を描いて日銭を稼ぐ絵師もいたともされている。画学校の設立には、京都だけでなく日本国の芸術界の存亡がかかっていた。
 学校設立に奔走したのは市井に生きた絵師たちである。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%BA%AC%E9%83%BD%E5%B8%82%E7%AB%8B%E8%8A%B8%E8%A1%93%E5%A4%A7%E5%AD%A6

 このような著者の姿勢はご本人が歴史学者であることからなおさら残念だし、当然、私のような読者の詮索を招き、著者が出身大学を隠そうとしている、といった憶測を呼ぶことにもなる。
 私は、著者と同じ年の生まれで、同学年でもあるが、我々の頃の京都市立教育大学の入学難易度がどの程度だったのかは詳らかにしないが、公立大学でもあり(上掲)、京都市に生まれた著者の地元の大学でもあって、彼が在籍歴を隠したくなるような大学では決してない上、著者は、「学生時代、わたくしがはじめて手にした漢文の歴史書は、趙翼の『廿二史箚記』だった。学部2年生の史料講読のテキストに用いた。卒業まで3年間つきあい、漢文史料の訓読、出典の調べ方、解釈の基礎をならった。テキストは、入手しやすかった台湾の世界書局刊行本であった。句読点はついていたが、小さな活字がぎっしり並んでいる。最初見たときは、吐く息をわすれた。ただ1年もたてば、漢字の行列も平気になった。これが、史料講読の最大の成果だった。」
https://www.iwanamishinsho80.com/post/choyoku 前掲
と書いていて、この大学に在籍したことが、自身が支那史学に強い関心を持つ契機になったことを仄めかしており、同大在籍を奥付にむしろ積極的に記すべきであるとさえ言えそうであるところ、私には著者が出身大学を隠そうとしている・・上掲の文章にも大学名は出て来ない!・・としても、その理由の合理的説明がつかず、首をひねったままだ。 

 (なお、これは、著者が隠した訳ではなく、事実なのだが、著者は博士号を取得していないところ、いささか腑に落ちないものの、この点は立ち入らないことにする。)

 「・・・中国史は、いまや日本の学生には不人気の科目である。
 中国史が中核をしめてきた東洋史専攻の学生数は、1980年代には、日中友好の風潮を反映して西洋史を凌駕するほどであった。
 ところが、1989年の天安門事件をさかいに、90年代後半ごろから、東洋史専攻生はしだいに減少に転じ、日本史や西洋史を専攻する学生に比べて格段に少なくなってしまった。」(x)

⇒「日中友好の風潮」云々にもひっかかりますが、いずれにせよ、著者には具体的な数字を示して欲しかったところです。(太田)

(続く)