太田述正コラム#14922(2025.5.4)
<渡辺信一郎『中華の成立–唐代まで』を読む(その4)>(2025.7.30公開)

 「・・・考古学者の甲元眞之<(注4)>によれば、中国の稲作栽培は、長江中流域の彭頭山(ほうとうざん)<(コラム#14500)>遺跡<(注5)>の事例を最古とする。・・・

 (注4)1944~2025年。教育大文卒、東大院考古学科博士課程満期退学、平安博物館、熊本大文助教、教授、東大博士(文学)、熊本大名誉教授。1998年に浜田青陵賞受賞。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%94%B2%E5%85%83%E7%9C%9E%E4%B9%8B
 (注5)「彭頭山文化(・・・、Pengtoushan Culture、紀元前7500年頃 – 紀元前6100年頃)は、・・・長江中流、湖南省北西部における新石器時代の文化である。北の黄河流域に栄えた裴李崗文化(はいりこうぶんか)とほぼ同時期に栄えた。・・・
 現在のところ<支那>の遺跡の中でも最も初期の恒常的な集落の跡となっている。ただし年代を確定することが困難であり、紀元前9000年頃のものという説から紀元前5500年頃とする説まである。・・・
 彭頭山遺跡では紀元前7000年頃の米のもみ殻などが発見された。この米の大きさは野生種のものよりも大きく、<支那>最古の栽培種の稲があった証拠となっている。・・・
 同じく・・・湖南省・・・澧県で見つかった・・・八十壋遺跡からは集落を堀で囲んだ跡が見つかり、最古級の環濠集落とも考えられる。また集落中央には祭祀を目的とした可能性のある大きな建物が発見された。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%BD%AD%E9%A0%AD%E5%B1%B1%E6%96%87%E5%8C%96

 紀元前8000年前半から7000年<頃である。>・・・
 <他方、>華北における畑作農耕の確実な事例は、前6000年紀における河南省新鄭県の裴李崗(はいりこう)遺跡<(注6)<(コラム#9435)>>や河北省西南部の磁山(じざん)遺跡<(注7)>の・・・アワやキビである。」(9)

 (注6)「裴李崗文化 (・・・Peiligang culture) は、・・・河南省の黄河流域で生活していた新石器時代の共同体のグループに考古学者が与えた名前で、・・・紀元前7000年から紀元前5000年までの間に存在し、70を超える遺跡がある。
 考古学者たちは裴李崗文化が平等主義であり、政治組織はほとんどなかったと信じている。
 この文化ではアワを耕作する農業やブタを飼育する畜産を実践していた。また、土器を作った古代<支那>最古の文化でもある。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%A3%B4%E6%9D%8E%E5%B4%97%E6%96%87%E5%8C%96
 (注7)「磁山文化・・・は、・・・河北省南部の黄河下流域に紀元前6000年頃から紀元前5500年頃にかけて存在した新石器時代。粟や黍などの雑穀栽培を中心とした農業による経済活動が中心であり、磨石や石斧などの石器、鼎形陶器、豚や鶏や犬などの家畜の骨、紡績された布繊維が出土している。
 磁山文化は南接する河南省で発見されている裴李崗文化と多くの共通点が認められ、磁山=裴李崗文化、または裴李崗=磁山文化とも称される。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%A3%81%E5%B1%B1%E6%96%87%E5%8C%96

⇒稲作・・水田稲作とみなしておく・・は、世界において、初めて支那の江南で初めて始まった
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%A8%B2%E4%BD%9C
ところ、それは、支那では、華北で始まった畑作に先行するところの、東アジア最古の農業であった、ということのようですね。
 (ちなみに、「およそ紀元前9500年頃の新石器時代にはレバントにおいて、デュラムコムギの始祖とされるエンマーコムギ、ヒトツブコムギをはじめ、オオムギ類、エンドウマメ類、レンズマメ、ヒヨコマメ、アマなど8種類の初期作物が収穫されていたことが知られている」し、「牧畜については、紀元前11000年頃のメソポタミアでブタの飼育が始まったのに続いて、紀元前11000年頃から紀元前9000年頃にかけて、ヒツジの飼育が始まったとされる。ウシについては、紀元前8500年頃の(現在の)トルコやパキスタン周辺で、現代の家畜牛の祖先にあたるオーロックス(1627年に絶滅)の飼育が始まった」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%BE%B2%E6%A5%AD%E3%81%AE%E6%AD%B4%E5%8F%B2
ところです。)
 「インド亜大陸でも紀元前7000年ごろにコムギやオオムギを栽培していたことが、バルチスタン地方(現在のパキスタン)のメヘルガルの考古発掘で明らかになっている」(上掲)ところ、東アジアの農業史は南アジアの農業史に先行することになりそうです。
 注目すべきは、支那においては、水田稲作社会よりも畑作社会の方が、発祥時においては、より平和で非階層的であったらしいことです。
 これは、前者より後者の方が農業生産性が低く、搾取する余地も争う意味もなかった、ということではないでしょうか。(太田)

(続く)