太田述正コラム#14924(2025.5.5)
<渡辺信一郎『中華の成立–唐代まで』を読む(その5)>(2025.7.31公開)

 「・・・二里頭晩期に属する遺跡からは、小刀・錐などの道具類、鉞<(注7)>・戈<(注8)>、爵<(注9)>・鈴などの礼器など、多種類の青銅器が発見された。・・・

 (注7)えつ=まさかり。「木を伐るのに用いる大形の斧(おの)。中古には兵器にも用いた。」
https://kotobank.jp/word/%E9%89%9E-36744
https://www.bing.com/images/search?view=detailV2&ccid=hHQSFv9I&id=62E823DFAC8237483D1E13BCBB98B8C00ADCDD9D&thid=OIP.hHQSFv9IIXfVgsEDjESvgAHaFL&mediaurl=https%3A%2F%2Fpic3.sucaisucai.com%2F07%2F07%2F07407583_2.jpg&exph=839&expw=1200&q=%E9%89%9E&simid=608039491814491379&FORM=IRPRST&ck=250B6F9534D6CB71C1A6A975A6ADBBFA&selectedIndex=24&itb=0&qpvt=%E9%89%9E&cw=1344&ch=1519&ajaxhist=0&ajaxserp=0 ←写真
 (注8)か=ほこ。「「ほこ」の和訓を与えられている字には「矛」もあるが、「矛」では金属製の穂先を槍と同様に柄と水平に取り付けるのに対し、「戈」では穂先を柄の先端に垂直に取り付け、前後に刃を備える。ただ日本の歴史時代に実用の武器として用いられたのは「矛」の方のみである<。>・・・
 刃がこのような形状で柄に取り付けられていたのは、後に中華世界を形成する東アジアの都市国家世界での貴族戦士間で戦われた戦車戦が、接近戦、白兵戦の段階に達した戦局において、こうした形状の白兵戦用武器が適していた為である。両手で柄を持って用い、戦車どうしがすれ違う時に、敵に打ち込んで突き刺したり戦車から転落させる、引っ掛けて首などを斬るといった用法で戦った。戦車戦においては矛のような突く武器よりも、戈のような切りつける武器の方が命中の確率や打ち合いによる防御性が高く、戦車の突撃力によって武器を敵に打ち込んだときの衝撃が、不安定な疾走する戦車の上に立っている使用者を戦車から突き落とす危険が少なかったからである。この衝撃はむしろ、斬りつけられた敵戦士の体の上を戈の刃が滑っていくように働き、効果的に敵戦士の体に切り傷を与えることができた。こうした刃の機能は、周以降の戈において、内側の刃(胡)になめらかな曲線が用いられることで、さらに著しく効果的になっている。
 当時の戦車は、英語で言うタンク (tank) ではなく、チャリオット (chariot) と呼ばれる二輪の軽快な馬車だった。馬は二頭程度で、三人が乗車し、そこに矛を持った徒歩の従卒が数人従ってひとつの戦闘単位を成した。中央に「御者」が立ち、左側の「車左」が戦闘指揮と弓矢による遠方からの射撃戦を担当し、右側では戈を携えた「車右」が接近戦、白兵戦に備える。戦車は車左の指揮と御者の操作により戦場を駆け、はじめに車左自ら弓射による射撃戦を行い、後に白兵戦にもつれ込むと、二台がすれ違って車右どうしが戈で斬り結び合うか、敵の戦車に追いすがり、車左や御者に戈の斬撃を加える。 こうした戦闘を不安定な戦車上で行うには、高度な習熟が必要であり、生産活動に代えて訓練に専念できる貴族階級でなければ身につけることは困難だった。東アジアの都市国家間の戦闘では、大規模な歩兵動員はできず、小規模な歩兵集団は戦車戦に熟達した貴族戦士に容易く圧倒された。 優れた威圧効果と射撃、白兵戦能力を誇る戦車は優れた戦力であり、同様に戈も活躍した。
 やがて鉄器が登場し、農地開発が進んで人口が増加、都市国家から領域国家の時代になると、戦場に動員される兵士数は激増した。 平民出身の歩兵が重要な役割を果たすようになった他、北方の遊牧民族から騎兵が取り入れられた。 騎兵は戦国時代から前漢にかけて盛んに用いられ、相対的に戦車の重要度は低下した。 そのため、戦車戦用の武器として発達した戈も同様に廃れていった。
 ただし歩兵用の武器のひとつとして、柄の短いものはしばらくの間使われた。また戈と矛を組み合わせた戟も開発されて歩兵に用いられた。・・・この時代の兵士は、近衛など一部エリートを除いて、農民や職人などを有事の都度徴募した動員兵が主体であった。彼らには刀槍よりも日常使い慣れた鍬や鎌や鎚に近い動作で扱える戈の方が適していたであろう。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%88%88 
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%88%88#/media/%E3%83%95%E3%82%A1%E3%82%A4%E3%83%AB:CMOC_Treasures_of_Ancient_China_exhibit_-bronze_dagger-axe(G%C4%93).jpg ←先端の写真
 (注9)さかずき=しゃく。「祭礼用の酒器。」
https://kanji.jitenon.jp/kanjid/1717
https://auctions.yahoo.co.jp/jp/auction/g1089531095 ←写真

 さらに二里頭遺跡からは、二つの宮殿遺跡が発見された。・・・
 二号宮殿は、四周を墻壁<(注10)>(しょうへき)で囲まれ、北寄りにあって南面する殿堂の南には約50メートル四方の殿庭があり、100人単位の人びとを収容し、祭儀・儀礼を挙行することができる。

 (注10)「へだてや仕切りのための壁。」
https://kotobank.jp/word/%E9%9A%9C%E5%A3%81-79812

 二里頭の住居址は、大型の宮殿遺跡を除けば、中型住居と小型住居とに区別できる。・・・
 <これは、>ピラミッド型の社会構成の存在を<示す>・・・ものである。・・・
 二里頭文化を形成した人びとは、みずからを夏あるいは夏人とよんだとみられる。・・・
 最近では、中国はもとより、日本の研究者も、二里頭文化とのかかわりから夏王朝の実在を説く人が多くなった。」(19~20)

⇒二里頭文化(夏?)では、階層分化が見られただけでなく、戦争もあったということになるところ、墻壁はあっても城壁は見つかっていないことから、戦争と言っても、頻度と規模が限定的であった可能性がありますね。(太田)

(続く)