太田述正コラム#14926(2025.5.6)
<渡辺信一郎『中華の成立–唐代まで』を読む(その6)>(2025.8.1公開)

 「・・・前1600年頃にはじまる殷王朝・・・の中核聚落群は、前期の偃師商城<(注11)>(えんししょうじょう)・・・、鄭州商城<(注12)>・・・のように大型城郭をもつ・・・。

 (注11)「河南省洛陽市偃師区の西にある、殷王朝初期の都の西亳<(はく)>に比定されている遺跡である。・・・
 城邑の形は長方形で、大城・内城・宮城という三重の城壁が建てられている。大城は長さが南北が約1700メートル余り、東西が約1215メートル・・・。すでに7つの城門が発見されている。城壁の厚さは上部が14メートル、下部が19メートルで、現在の高さは2.3メートルである。外側には堀がある。内城の形も長方形で、長さは南北が約1100メートル、東西が約740メートルである。城壁の厚さは6-7メートルで、大城と同様の形態をしている。内城の西壁・南壁と大城の城壁は重なっている。中央には宮城の遺構があり、形は正方形に近く、四方に厚さ約2メートルの土壁が建てられている。周囲の長さは約800メートル強で、すぐ外を厚さ約3メートルの土壁に囲まれている。・・・
 城邑の東北と西南には1つずつ小城が建てられている、形はほぼ正方形で、周囲の長さは約200メートルである。周囲には厚さ2メートルの土塀が築かれている。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%81%83%E5%B8%AB%E5%95%86%E5%9F%8E%E9%81%BA%E8%B7%A1
 (注12)「河南省・・・鄭州市の二里岡一帯で商代の遺跡が発見され、・・・早期の都である亳都と推定しました。・・・面積は25万平方キロメートルで、「内城外郭」の構造を採用し、後世の<支那>古代都の建造の基本規制を打ち立てました。」
https://www.afpbb.com/articles/-/3477258
 「湯は夏王朝を滅ぼして殷の王になり、亳がその都になった。後、帝仲丁が都を隞に移し、その後も転々としたが、帝盤庚が成湯の故地に遷ってまた都を置いた。後、帝武乙のときにまた亳を去って黄河の北に都を移した。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%BA%B3

⇒鄭州の鄭州商城と洛陽の偃師商城の位置関係は下掲図の通りです。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%B4%9B%E9%99%BD%E5%B8%82#/media/%E3%83%95%E3%82%A1%E3%82%A4%E3%83%AB:ChinaHenanLuoyang.png 黒丸が前者、白丸が後者
 二里頭文化(夏?)は城壁文化だったので、その夏の本拠のかなり東の位置に最初の首都を設けた(注13)殷はそこに鄭州商「城」を築き、また、殷は、その後首都としたところの、二里頭文化(夏?)の本拠のすぐ近くに設けた首都にも、「惰性で」偃師商「城」を築いた、と考えられます。(太田)

 (注13)「欧米の考古学者は殷墟と違い、二里岡遺跡から文字の出土がない事から、ここを殷王朝発祥の地<の亳>とするのは慎重な立場です。」
https://hajimete-sangokushi.com/2022/07/25/shang-dynasty/

 <しかし、>後期の中核聚落である殷墟<(注14)>には城郭はない。」(22~23)

 (注14)「殷墟(いんきょ)は、・・・殷王朝後期の首都の遺構<であり、>・・・河南省安陽市の市街地西北郊、殷都区に位置する。・・・
 殷王朝後期(BC14世紀ごろ – BC11世紀ごろ)、・・・第19代王盤庚による遷都から帝辛の時代の滅亡に至るまでの期間、殷の首都が営まれたと伝えられる。・・・
 都城(城壁)の痕跡<は>見つかっていない<。>」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%AE%B7%E5%A2%9F
 全て同じ河南省の中の話だが、安陽市の殷墟(殷都区)は、鄭州商城のほぼ北方、偃師商城のほぼ東北方に位置する。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%AE%89%E9%99%BD%E5%B8%82
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%B4%9B%E9%99%BD%E5%B8%82#/media/%E3%83%95%E3%82%A1%E3%82%A4%E3%83%AB:ChinaHenanLuoyang.png 前掲

⇒殷が城壁文化を排した・・最初から排していた可能性すらある・・ことに、渡辺らが注目しないことが私には不思議でなりません。
 「殷王朝は世襲制を取らず、「甲」「乙」「丙」「丁」の4つの王族から持ち回りで王を選出し、さらに、「戊」「己」「庚」「辛」「壬」「癸」の6つの王族から中継ぎや妃を出させていたと考えられています。」
https://hajimete-sangokushi.com/2022/07/25/shang-dynasty/2/
という史実と照らし合わせると、以前から指摘している(コラム#省略)ことですが、殷は人間主義的な文化の王朝であった可能性があるのではないでしょうか。
 (ちなみに、「非世襲であったのは初期<だけ>で<あって、>殷王朝の権力が強大化すると権力の集中が進められ、辛、丁、乙の3王族が王位を独占、事実上の世襲制になったのではないかとも考えられ<るところで>す。」(上掲))
 「殷王朝は占いによって政治をしていました。これを神権政治と言います。しかし、殷の神権政治は多数の人間の生贄いけにえを必要とするものでした。後年になればなるほど生贄は増えていき、発掘により少なくとも14000人が生贄とされたと見られます。これは当時の人口を考えても異常な人数です。さらに殷王朝は、この生贄を調達する為に他部族から人間の献上を強要しました。このような恐怖政治が他の多くの部族の反感を買い、やがて、周・・・など<の>東西南北の従属国が連携し、紂王が東夷の征伐に乗り出した隙をついてクーデターを起こし牧野の戦いで殷軍を撃破し殷は滅びたようです。」
https://hajimete-sangokushi.com/2022/07/25/shang-dynasty/3/
という、ある意味では過酷な統治を行っていたにもかかわらず・・。(太田)

(続く)