太田述正コラム#14928(2025.5.7)
<渡辺信一郎『中華の成立–唐代まで』を読む(その7)>(2025.8.2公開)


[改めて殷人たる孔子について]

一 始めに

 「『史記』によれば、孔子の祖先は宋の人であ<り、>『孔子家語』本姓解ではさらに詳しく系図を記し、孔子を宋の厲公の兄である弗父何の10代後の子孫であり、孔子の曽祖父の防叔のときに魯に移ってきたと言っている<ところ、漢>・・・の成帝の時、・・・宋の君主の末裔を押しのけ、孔子の子孫である孔何斉が殷王の末裔を礼遇する地位である「殷紹嘉侯」に封じられた。続いて平帝も孔均を「褒成侯」として厚遇し<、>その後、時代を下って宋の皇帝仁宗は1055年、第46代孔宗願に「衍聖公」という称号を授与した。以後「衍聖公」の名は清朝まで変わることなく受け継がれ<、>しかも「衍聖公」の待遇は次第に良くなり、それまで三品官であったのを明代には一品官に格上げされた<ところ、>これは名目的とはいえ、官僚機構の首位となったことを意味する<のであって、>孔子後裔に対する厚遇とは、単に称号にとどまるものではない。たとえば「褒成君」孔覇は食邑800戸を与えられ、「褒成侯」孔均も2000戸を下賜されている<が、この>食邑とは、簡単に言えば知行所にあたり、この財政基盤によって孔子の祭祀を絶やすことなく子孫が行うことができるようにするために与えられたのである。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%AD%94%E5%AD%90
とされている。

二 本論–仁・礼・楽

 で、この宋なのだが、「周によって滅ぼされた殷の帝辛(紂王)の異母兄微子啓が封じられた国であったという。ただし、『史記』宋微子世家によれば、微子啓の後継者は同母弟の微仲であり、微仲までは微の地を領土としていたと考えられる。国力はさほどでもなかったが、前王朝の王統に繋がる国ということで最高位の公爵が与えられていた。襄公の時代に力をつけ、斉の桓公が死んだ後に諸侯を集めて会盟した。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%AE%8B_(%E6%98%A5%E7%A7%8B)
 「これを快く思わなかったのが楚の成王である。当時の楚の国力は宋を遥かに凌いでおり、宋が主導権を握ろうとしたことに対して反発して自身は会盟に出席せず、代わりに将軍の子玉を送った。諸侯は口々に楚王の無礼をなじったが、襄公<(注15)>はそれらをなだめて会盟をおこなった。

 (注15)?~BC637年。在位:BC651~BC637年。「襄公には異母兄の公子目夷(子魚)がおり、襄公は位を目夷に譲ろうとしていたが、父の桓公に拒否され、宋公になった後に目夷を宰相の地位に就けた。
 即位直後の喪が明けていない時から斉の桓公が主催する会盟に参加し、その後もたびたび会盟に参加した。襄公は私事よりも礼を重視する理想主義者であった。
 紀元前643年に桓公が死去した。斉国内では後継を巡って内乱状態になる。これに対して襄公は会盟を開いて曹・衛・邾ら小国を引き連れ、かつて宋に留学していた縁がある太子昭を推し立てて斉へと赴き、内乱を収めて昭を斉公とした。これが孝公である。さらに会盟に来なかった滕の宣公を捕らえた。
 紀元前639年、斉・楚と会盟し、諸侯の盟主となることを楚に認められた。この間、目夷は宋が諸侯の盟主となることは身の丈に合っていないので危険だと諌めていたが、襄公は聴かなかった。さらに襄公は楚・陳・蔡・許・曹を集めて会盟を行うが、この席で楚により監禁され、盟主としての面目をつぶされる。
 翌年、襄公は屈辱を晴らすべく衛・許・滕などを引き連れて、楚の盟下にあった鄭を攻める。これに際しても目夷は諌めたが、襄公は聴かなかった。楚の成王は軍を発して鄭を救援に向かい、両軍は宋国内の泓水の畔で戦うことになる。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%A5%84%E5%85%AC_(%E5%AE%8B)

 会盟が始まったが、子玉<は、>・・・突如として襄公を拉致し、周辺の邑を荒らしまわった。宋の兵は襄公が人質に取られているので手も足も出せなかったが、見かねた諸侯が子玉をなだめ、なんとか襄公を取り返すことが出来た。襄公の盟主としての面目は丸潰れとなり、気の済んだ子玉は意気揚々と楚に引き上げていった。このときの子玉の所業を成王はいたく気に入ったらしく、のちに子玉は楚の令尹(宰相)になる。宋の国民は大いに怒り、成王の無礼を正すために楚に挑戦することになった。楚軍は首都郢を発し、襄公はこれを受けて決戦の地に宋国内の泓水のほとりを選んだ。やがて楚軍が現れ、川を渡り始めると宋の宰相の目夷(子魚)は「まともに戦えば勝ち目はありません。楚軍が川を渡りきって陣を完成する前に攻撃しましょう」と進言した。しかし襄公は「君子は人が困っているときにさらに困らせるようなことはしないものだ」と言ってこれを退けた。目夷は「ああ、わが君はいまだに戦いを知らない」と嘆いたという。果たして、川を渡りきった楚軍は陣を完成させ、宋軍を散々に打ち破った。襄公自身も太股に矢傷を負った。このことから、敵に対する無用の情け、分不相応な情けのことを宋襄の仁(そうじょうのじん)と呼ぶようになった。・・・襄公は、この戦いで受けた矢傷がもとで、2年後に亡くなっている。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%B3%93%E6%B0%B4%E3%81%AE%E6%88%A6%E3%81%84
 「襄公は旧国の遺族であるという自負から(宋は殷の末裔)、当時失われつつあった戦場に於ける礼を頑固に守り通そうとした理想主義者であるという擁護論として、司馬遷などが、襄公のことを評価している(『史記』宋微子世家)。
 実際、当時は「両軍が挑戦と応戦の使者をやりとりしてから開戦する」「白髪混じりの捕虜は『老兵』として無条件に釈放される」「両軍が代表の勇士を出し、その決闘で勝敗を決める」などの儀礼的な慣習が戦場であっても色濃く残っていた時代であり、『孫子』にある「兵は詭道なり」といった効率重視の戦争ではなかった。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%A5%84%E5%85%AC_(%E5%AE%8B)
 「泓水の戦いの後、晋の公子である重耳が宋に亡命してきた。重耳が逸材である事を見抜いた襄公は、敗戦後にもかかわらず重耳を大いにもてなした。この恩を重耳は忘れず、後に晋の君主<(文公)>になった後、宋が楚に攻められた時に大軍を発してこれを救援した。[<すなわち、>城濮の戦いで楚軍を散々に打ち破ると、令尹・子玉は敗戦の責任を問われて自殺した。さらに成王も太子の商臣に殺されてしまうのである。]重耳の死後もこの関係は変わらず、どんなに楚に痛めつけられても宋は晋に対する友誼を捨てなかった。これにより楚が北上し、晋が押し返すという春秋時代中期の形が出来上がっていくのである。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%AE%8B_(%E6%98%A5%E7%A7%8B) 前掲
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%B3%93%E6%B0%B4%E3%81%AE%E6%88%A6%E3%81%84 ([]内)前掲
 「<しかし、>襄公の後は斉・楚・晋といった大国の挟間で地位を低下した。・・・<最初にして>最後の王であ<った>康王は暴君であったために名声が低くかつての夏の桀になぞらえ桀宋と呼ばれる有様であった<とされる>。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%AE%8B_(%E6%98%A5%E7%A7%8B) 前掲
 「<そして、>紀元前286年、斉・魏・楚の連合軍にあっけなく敗れ、宋王偃は殺され、宋は滅亡した。領地はこの戦勝国により3分された。殷の流れを汲む王朝はここに完全に途絶えた。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%BA%B7%E7%8E%8B_(%E5%AE%8B)

⇒私は、孔子(BC552/551~BC479年)の仁・・対人間に限定されたところの、人間主義的なもの・・は、殷の公族(王族)を祖先に持つ彼が、殷の時代を思い起こして唱えたものと解している(コラム#省略)ところ、より身近なものとして、宋の襄公のいわゆる宋襄の仁が念頭にあったのではないか、と、考えるに至っている。

(続く)