太田述正コラム#14930(2025.5.8)
<渡辺信一郎『中華の成立–唐代まで』を読む(その8)>(2025.8.3公開)
宋襄の仁は冷笑されるべきどころか、宋の延命に資した、というのが孔子の受け止め方だったのではなかろうか。
しかし、私に言わせれば、孔子は、襄公の仁を高く評価するのではなく、その軍事音痴ぶりに対する糾弾をこそ行うべきだったのだ。
そもそも、孔子の、彼が公然と崇めたところの、周公旦、に対する評価も甚だ片手落ちだ。
「孔子の生まれた魯(紀元前1055年 – 紀元前249年)は、周公旦<(注16)>を開祖とする諸侯国で、周公旦は周王室の有力者で殷を滅ぼした武王の弟とされる。
(注16)「武王の死により、武王の少子(年少の子)の成王が位に就いた。成王は未だ幼少であったため、旦は摂政となり、三公の太傅となって建国直後の周を安定させた。
その中で三監の乱が起きた。殷の帝辛の子の武庚(禄父)は旦の三兄の管叔鮮と五弟の蔡叔度、さらに八弟の霍叔処ら三監に監視されていた。だが、霍叔処を除く二人は旦が成王の摂政に就いたのは簒奪の目論見があるのではと思い、武庚を担ぎ上げて乱を起こしたのである。・・・旦は・・・反乱を鎮圧した・・・。
さらに、引き続き唐が反乱を起こしたので、再び旦自らが軍勢を率いて、これを滅ぼした。
その後、7年が経ち成王も成人したので旦は成王に政権を返して臣下の地位に戻った。その後、洛邑(洛陽、成周と呼ばれる)を営築し、ここが周の副都となった。
また旦は、礼学の基礎を形作った人物とされ、周代の儀式・儀礼について書かれた『周礼』、『儀礼』を著したとされる。旦の時代から遅れること約500年の春秋時代に儒学を開いた孔子は魯の出身であり、文武両道の旦を理想の聖人と崇め<た。>」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%91%A8%E5%85%AC%E6%97%A6
周公旦は、武王の子である成王を補佐し、克殷直後の周を安定させたと伝えられている。周公旦は、征服地の山東半島の曲阜に封じられて諸侯のひとり魯公となるが、魯に向かうことはなく、嫡子の伯禽に赴かせてその支配を委ね、自らは関中の鎬京と華北平原への出口を扼する洛陽を拠点とする周本国で朝政に当たっていた。周公旦は、周王朝の礼制を定めたとされ、礼学の基礎を築き、周代の儀式・儀礼について『周礼』『儀礼』を著したとされる。旦の時代から約500年後の春秋時代に生まれた孔子は、魯の建国者周公旦を理想の聖人と崇めた。論語の伝えるところによれば孔子は、常に周公旦のことを夢に見続けるほどに敬慕し、ある時に夢に旦のことを見なかったので「年を取った」と嘆いたと言うほどであった。魯では周公旦の伝統を受け継ぎ、周王朝の古い礼制がよく保存されていた。この古い礼制をまとめ上げ、儒教として後代に伝えていったのが、孔子一門である。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%AD%94%E5%AD%90
であるところ、「注16」の「孔子は・・・文武両道の旦を理想の聖人と崇め」に典拠が付いていないが、孔子の時代のずっと後で、「「文事ある者は必ず武備あり」という言葉が『史記』には記されている<が、>文武は一方に偏ってはならないという意味である」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%96%87%E6%AD%A6%E4%B8%A1%E9%81%93
というのがどうやら「文武両道」や「文武二道」といった言葉の起源らしいこともあり、私はむしろ、旦の「文」・・すなわち礼・・の側面だけに注目し、「武」の側面をも注目しなかったところに、孔子の限界があった、と、見るに至っている。
「成王が成長した後に、周公は一臣下に戻った。成長した成王は周公旦・召公奭を左右に政務に取り組み、東夷を討って勢威を明らかにした。
成王の後を継いだのが康王(在位:前1020年 – 前996年)である。康王は召公奭と畢公高を左右にしてよく天下を治めた。成王・康王の時代は天下泰平の黄金時代であり、40年にわたり刑罰を用いることがなかったという(成康の治)。
その後は徐々に衰退する。4代目の昭王(在位:前995年 – 前977年)は南方へ遠征を行ったが失敗し(後代の文献では遠征中に死亡したとされているが、同時代にその記述はない)、それ以降周は軍事的に攻勢から守勢に転じるようになった。5代目の穆王(在位:前976年 – 前922年)以降、王は親征することが無くなり、盛んに祭祀王として祭祀儀礼を行うことで軍事的に弱まった王の権威を補っていくことになった。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%91%A8
ということから分かるように、周公旦の後、周は急速に衰えていったところ、これは、旦が周の軍事力を維持する方策を講じなかったためであるとも考えられ、他方で、にもかかわらず、周が形の上では、BC249年まで生き延びる(上掲)ことができたのは、殷の神権政治に代わって周が周公旦によって、私見では、殷の神権政治の反省の上に立ち、人々をして外形を整えることから仁に到達せしめることで秩序を維持しようと目論んだところの、礼、による政治・・礼制政治とでも呼ぼう・・を始めた賜物だった、と、孔子が考えたためだろうが、周公旦亡き後の周が衰退の一途を辿ったのは、旦が自分の個人的な軍事練達ぶりを制度化することを怠った結果であると考えられる以上、孔子は少なくともそのことへの批判を併せ行うべきだったのだ。
(続く)
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