太田述正コラム#14932(2025.5.9)
<渡辺信一郎『中華の成立–唐代まで』を読む(その9)>(2025.8.4公開)
「・・・西周の王権は、三層からなる政治空間によって認識されていた。
その中核は、王都宗周・成周であり、その周辺には軍事組織と牧畜経営をかねた王権直轄領の還(県)がいくつか存在する。
これは大邑商の奠の領域にあたる。
第二の層は、王都をとりまく内域(國)・中域(國)とよばれる内服の領域であり、そこには内服諸侯が封じられて王権を直接ささえた。
その外の第三層は四方・四域(國)とよばれる外服の領域であり、内服諸侯-百生の支族が各地に封じられた。
西周の<この>領域認識は、殷の認識とほとんど変わらない。
<殷と>異なるのは<以下だ。>・・・
周は、殷を討伐し、王権を掌握する正統性の根拠として天、天命の観念を創造した。
⇒この点は頗る付きに重要であり、後で再訪する所存です。(太田)
・・・西周初期の金文には、文王が天命を受け、武王が四方を領有したことを述べるものが多い。
やがてそれは王の称号のほかに、天子の称号を生みだし・・・中国(中原)にいて四方・四国に政治的統制力をおよぼし、封建制<(注17)>の頂点に君臨したのである。・・・
(注17)「殷王朝は・・・地方統治においては土着の領主をそのまま追認する形になっており、結果として・・・弱い支配体制になった。
一方、・・・周王朝は、殷代には見られなかった画期的な制度も創始しており、それが「封建」である。周は殷を滅ぼした後、その支配地域の大部分を継承したが、各地に王の子弟や臣下を派遣し、諸侯(地方領主)としたのである。・・・
封建の地を支配する諸侯とその下に就く王畿からの諸侯とは別に、地元の豪族(土豪)たち、そして庶民を加えて、一国が構成される。・・・
周王朝の封建制度においても諸侯は自立的な存在であり、周王が諸侯に対して内政干渉をした例は多くないが、血縁関係や君臣関係を地方統治に及ぼすことにより、支配体制が安定化し、殷代のように配下の領主が反乱することはほとんど起こらなくなった。」
https://rekishinosekai.hatenablog.com/entry/seisyuu-houken
春秋期にはいると、・・・王や天子のほかに、ときに周王を天王とよぶようになる。
「嗣天子王」と関連する呼称であろう。・・・
<このほか、>殷と異なるのは、王家としての家産経営と三有司など初期的官僚制<(注18)>が出現したこと、その統合秩序として冊命(さくめい)(任命)儀式をはじめとする礼制を整備したこと・・・である。・・・
(注18)「<周>王朝の官制は大きな2つの寮と呼ばれる組織を中心として成り立っている。ひとつは卿事寮であり、もうひとつは太史寮である。・・・
卿事寮は王畿内の政治を司り、太史寮は儀礼、祭祀や王室が持つ図籍の管理を行っていた。・・・
[卿事寮]に属する官で金文中にもよく見えるものに司馬・司土(徒)・司工の三職がある。これらはまとめて參有司とも称され、実務の中心となっている。司馬はおもに軍事を、司土は土地の把握を担当しているが、司工については金文ではとくにめいかくではない。この司馬・司土・司工は、金文においては、個別の職務よりも、王朝における官職任命の儀式に際して重要な役割を果たしていることのほうが目につく。・・・
ただし、これらの官を含み卿事寮、太史寮の官にあるものは元の役目以外の任務も行っている。このことは西周代を通して見られる現象で、とくに後期になるほど特定の人物が多くの任務を兼ねる例が出てくる。
王畿内を「内服」、その外の王朝の領域を「外服」と呼ぶが、外服の政務は諸侯たちに委任された」(上掲)
⇒この点は、私見では上出の天、天命観念と密接不離の関係にあるのであって、併せて後で再訪する所存です。(太田)
しかしまだ全国土に対する領域観念はなかった。
周の王朝名は、出自する土地の名に由来するものであった。・・・」(27~28)
⇒ですから、既述したことがある(コラム#省略)ように、私見では、西周の政治制度は封建制ではなく、邑制、と捉えられるべきなのです。(太田)
(続く)