太田述正コラム#14934(2025.5.10)
<渡辺信一郎『中華の成立–唐代まで』を読む(その10)>(2025.8.5公開)
「<実は、>殷末から西周期にかけて、貢献制度<が>進化し複雑化して封建制<へと>展開した<のだ>。・・・
貢献制は、首長・王権などの政治的中心にむかって従属下や影響下にある各地域聚落・族集団から礼器・武器・財貨・穀物・人物等を貢納し、首長や王権が主宰する祭祀や儀礼を助成するなどして、ゆるやかな従属を表明する行為である。
これに対して首長や王権は、祭祀や儀礼執行にさいし、政治的中心に蓄えられた貢納物を参加した地域聚落や族集団の代表に気前よく再分配することをつうじて政治的秩序をうちたてる。
この貢納-再分配関係によって、首長・王権はゆるやかな政治的統合を実現した・・・。・・・
<やがて、>成周・中域(國)に四方・四国からの貢納物が集められ、蓄積されるようになり、<その結果として、>・・・中域(國)としての「中原」<が>形成<され>たのである。・・・
殷末から西周期にかけて、貢献制は封建制に進化する<のだが、>封建ということばは、西周の当初から存在したわけではない。
封建の熟語は、『春秋左氏伝』から眼につきはじめる。
封建は、むしろその実態が変容し形骸化した戦国期から漢代にかけてできあがったことばである。
当初は、単に封や建によって表現することが多かった。・・・
西周の封建制は、単純な貢献制である穀物・人物・財貨等の貢納-再分配から進んでより複合化し、最初の封建時に身分序列をあらわす礼器や封土および族集団を再分配することにより、蜀豪(貢献物・征戦等)の貢納をわりあてて、中心となる王権のもとに複数の下位首長である諸侯、宗氏-分族、宗子-百生を階層制的序列に組みこんで統合する政治秩序<なの>である・・・。
このばあい王権と諸侯-百生との関係は、貢納-再分配をつうじた上位首長と下位首長との間の二者間君臣関係である。
王権はせいぜい諸侯-百生からなる支配者集団におよぶにすぎず、下層族集団の内部にまで貫徹してはいない。
また周王権の文化的政治的影響力がおよぶすべての地域の首長や族集団が王権に対して貢納関係・封建関係を結んでいたわけではない。
戎や夷とよばれる諸種族が中原地域や淮域をはじめその周縁に散在した。
かれらは、貢納によって従属関係にはいるばあいもあるが、往々にして離反した。
西周王権はなお、統一的な領土国家として政治支配を実現するにいたっていない。
それは、前国家段階における首長制的社会統合をより複合的広域的に実現したものであった。
この西周封建制には、二つの類型があった。
ひとつは、周王権との系譜関係をもつ首長や同盟関係にある異種族の首長を武装植民の形で各地に派遣し、身分序列を表示する礼器とともに王人百生などの諸親族集団を再分配し、その地の諸集団と領域とを支配させる類型である。
もうひとつは、殷の遺民を封じた宋国のように、旧来の族集団を基本的に維持したままで、諸侯に封じて建国させる類型である。・・・
もとより西周封建制の特質は武装植民地型の封建制のほうにあったといってよい。・・・
<西周>では、兵站活動や後方支援をささえるだけの財政が未確立であった。・・・
封建制<は、>・・・後方支援<なくして、>・・・武装植民方式<でも>って領域を拡大していった<わけだが、>・・・それは、春秋時代にかけて諸侯が自立化し、やがて王権を否定していく基盤ともなった。」(29、31~32、36~38)
⇒欧州や日本の封建制と西周の邑制との違いは、後者の「御恩」と「奉公」の奉公が軍役だけではなかったことと、後者においては、領域が穴だらけであったこと・・邑と邑の間に非支配領域や半支配領域があったこと・・であり、周公旦は、封建制化に着手すべきであったのにしなかったことが、西周の弱体化を必然化してしまったのであり、それこそが、支那の悲劇的な王朝循環史をもたらす根本原因になった、と、私は考えるに至っています。(太田)
(続く)