太田述正コラム#14938(2025.5.12)
<渡辺信一郎『中華の成立–唐代まで』を読む(その12)>(2025.8.7公開)

 「・・・法家の開祖と目される李悝<(注21)>(りかい)が魏の文侯(在位前424~前387)に「地力を尽くす教え」を説いた。

 (注21)「生没年不詳。・・・戦国時代初期の政治家、法律家。魏の文侯・・・に仕え、その経済政策によって魏国を富強にしたといわれる。まず、「地力を尽くすの教(おしえ)」を唱え、土地の開拓、数種の穀物の同時播種(はしゅ)、空閑地の利用などの方策を実行して農業生産を高めた。また、「平糴(へいてき)法」によって穀物価格の調節を行<うところの、>・・・常平倉の先駆のような制度を考案し・・・、農民とともに都市住民の生活の安定を図った。一方、諸国の法を参照して『法経』六編をつくったとされる。この法は、商鞅が秦国に実施して以来、[韓非子を経て]秦、・・・蕭何<の>・・・漢二朝に受け継がれ、秦律、漢律はそれを基礎に編纂されたものといわれる。・・・
 《漢書》芸文志に李悝の書として《李子》32巻が見えるが,早く滅んで伝わっていない。」
https://kotobank.jp/word/%E6%9D%8E%E6%82%9D-148408
https://rekishinosekai.hatenablog.com/entry/houka1 ([]内)

 かれは、そのなかで前5世紀末から前4世紀初頭にかけての・・・5人の小家族が年一作式農法をもちいて100畝の土地を経営している・・・小農経営の様相を・・・説いている。・・・
 前4世紀半ばごろ、孟子は、100畝の分田を夫が耕作し、5歩の宅地に桑を植え、妻が養蚕して絹を織り、5羽の雛鶏と2匹の雌豚とを飼育すれば、老人をかかえる8人家族でも飢えたり凍えたりすることはないと述べている(『孟子』尽心上篇)。
 これが李悝の「地力を尽くす教え」とともに、戦国期の小農の標準経営を示していると考えてよい。・・・
 孟子はまた、・・・小農経営の形成を基盤として、農工間の社会的分業の存在、支配者集団と庶民百姓との精神労働と肉体労働との社会的分業の存在<を説いた>・・・。
 小農社会は、社会的分業の形成と相互不可分の関係をもって成立したのである。

⇒そんな社会的分業など、もちろん、小農社会の到来以前から存在していたわけであり、渡辺がここで言っていることはナンセンスです。(太田)

 ・・・小農民経営・・・形成<の>・・・根底には、華北<において、>・・・数年作付をしたのち放棄をくりかえしていく・・・切替畑農法から、・・・前7世紀から前4世紀にかけて、華北で・・・鉄製農具が出現し、普及していった<結果、>先端が二股にわかれてフォークのような形態をもつ耒(らい)、スプーン型の耜(し)とよばれる木製耕起用具の先端に鉄が取りつけられるようになり、耕起深度が比較的深くなるとともに、畝を立てて種を条播(すじまき)することが一般化し<、かつ>また鋤(じょ)とよばれるクワ型の中耕・除草駆除と肥培管理が容易にできるようになった<ことに伴い、>・・・年ごとに同じ耕地に一度作付して一度収穫する年一作農法へと農耕方式が転換したことである。・・・
 <かかる背景の下、>魯国では、前594年秋に、史上「初めて畝に税す」るようになり(『春秋』)、前6・5世紀交替期には晋邦各地で・・・年一作式農法と収穫量の5分の1を収取する租税制度とが施行されるようになった・・・。
 それは、戦国期にはいって、李悝が魏の分侯に説いた10分の1税につながっていく。」(48~52)

⇒非切替畑/年一作農法への変化が小農民経営をもたらした、との渡辺の主張には十分な説得力がありません。
 というのも、西端の共和政期の古代ローマでは、「小農民による」、[二つの圃場を用意して、1年ごとに穀物栽培と、なにも作らないでおくこと(休閑期)を繰り返す農業<であるところの、>二圃制<、>]の下で、「小麦栽培、と、〈休閑地での〉羊と山羊の牧畜」、・・年一作農法ながら切替畑!・・からなる(農牧)混合農業が営まれていた
https://note.com/ciaobella_aurora/n/n921577804796 (「」内)
https://geography-trip.com/two-and-three-field-system-mixed-farming/ ([]内)
https://kou.benesse.co.jp/nigate/social/a13z0312.html (〈〉内))
ところ、この小農経営の人的構成まで調べませんでしたが、渡辺の言う、支那の戦国時代の小農経営の人的構成と顕著な違いがあったとは思えないからです。(太田)

(続く)