太田述正コラム#14946(2025.5.16)
<渡辺信一郎『中華の成立–唐代まで』を読む(その16)>(2025.8.11公開)

 以下は、佐藤信弥による吉本道雅の覇者体制論の紹介の上出コラム主による孫紹介だ。↓
 「前632年<の>城濮<(じょうぼく)>の戦い<で、>晋文公の連合軍が楚成王の連合軍を破<り、>戦勝後、践土(現在の河南省新郷市原陽県)で会盟を行い、この場で<晋文公は>周襄王より侯伯すなわち覇者に任じられた<が、>文公以後、覇者の地位は<事実上>晋の君主に世襲されることになる。・・・
 会盟は晋と同盟諸侯国との協議の場であった。その開催の目的は、同盟の維持・更新、同盟離反国への共同制裁、同盟国同士の交戦の禁止、や他国からの亡命者受け入れの禁止など同盟内の平和維持、同盟外からの攻撃に対する共同防衛、同盟国における内紛の調停、同盟国の災害の援助などを協議決定することにあり、基本的に同盟及び同盟国の保全を目的として行われるものであった。
 斉の桓公の覇権が洛邑より東に偏っていたのに対し、晋の覇権は晋国自体が西方に位置していることから、洛邑を中心とする中原全体に及んでいる。ただし<東>方の斉は早々に晋の覇権から離脱し、晋よりさらに西方の秦にも覇権が及んでいない。城濮の戦いで矛を交えた楚は<本来、夷狄、であり、>無論覇権の範囲外である。
 そして同盟国には、会盟の参加、軍役など会盟での決定事項の履行、勤王、そして晋への朝聘(ちょうへい)・貢納といった義務が課された。・・・
 朝聘とは要するにご機嫌伺いに晋へ赴けということ。・・・
 斉や秦など自立できるほどの大国は晋の影響下に入ることを拒否したが、中小諸侯国は体制に入会しなければ「覇者体制連合軍」に攻め滅ぼされるので、選択肢は無い。
 しかし中小諸侯国は体制に入っていれば攻め滅ぼされる恐れは無くなるというわけでもなかった。晋の国内で御家騒動が起これば、すかさず楚が中小諸国に襲いかかってきたし、楚で荘王のような傑物が現れるとまた攻め込んできた。晋の覇者体制が続いていた時期も、中小国は楚の支配下に入らなければならなかったことも複数回あったようだ。さらには、・・・晋自体が近隣の小国を滅ぼして領土を拡大していた。
 ・・・前597年に楚の荘王が邲<(ひつ)>の戦いにおいて晋を大敗させたが、<晋は、>前589年に<鞍の戦い>で斉を、前575年に鄢陵<(えんりょう)>の戦いで楚を破った。・・・
 渡邉義浩氏<が>邲の戦いによって覇権は晋から楚へ移ったとしているように、晋による覇者体制が前506年まで「なにごともなく続いた」わけではない。
 前546年に弭兵<(びへい)>の会が催された。晋・楚の間で和議がなった。これにより仮想敵国が無くなり同盟の存在意義が喪失した。これを起因として国家間秩序の弛緩と共に、各国国内の秩序も不安定化した。
 前506年に、蔡が楚の侵攻を受け、救援を要請すると、晋を盟主とする召陵の会・皐鼬<(こゆう)>の盟が為された。しかし軍事行動は起こさなかった(同年、楚は呉と戦って大敗した–柏挙の戦い)。これ以降 会盟は開かれず、同盟から諸侯たちが次々と離脱し、「覇者体制」は崩壊した。」

https://rekishinosekai.hatenablog.com/entry/synnjuu-sin-bukou 

 上掲の「覇者体制の歴史」から、私見では江南文化人が中原文化人化したところの、楚、呉、越、が、東周王の権威を認めず、従って形式上は東周王のためであった、覇者体制、に入ることを肯んじなかったことから、楚、呉、越、の強大化に伴い、覇者体制が有名無実化して行った、と、言えそうです。


[耕戦の士制への歩み]

「春秋時代の始めは、576戸の農家を1甸(デン)としてまとめ、甸ごとに車1輛、馬4頭、牛12頭、甲士(戦車乗員)3人、徒兵(歩兵)72人を軍賦として差し出さなければなりませんでした。つまり、農民の出兵率はほぼ8戸に1人となります。
 つまり戦車100輌1万人の軍を作るには人口80万人(1戸当り10人と仮定)となり、春秋時代初期ではこれほどの軍を作ることは難しかったでしょう。
 さて春秋時代後期になると、徴兵の単位が甸から44戸の丘に改められ、その丘に同量の軍賦が要求されたため、農民の出兵率は2戸に1人に跳ね上がりました。
 戦国時代には、徴兵基準に達したすべての男子を徴集する国も現れ、1家で3人もが戦場へと出兵してゆく事態もあったといいます。秦の『睡虎地秦簡』では「同居」から同時に戌卒に徴発した場合に官吏は罰せられるとあるので、国家も兵力増強と生産性維持のバランスには苦労したでしょう。
 弱肉強食の世になって兵力(歩兵)は急増しましたが、戦車の台数はそれほど増えず、兵士100万に対して1,000輌程度であったようです。1輌=歩兵100人なので、1,000輌でも歩兵10万にしかならず、あとの90万は戦車とは別に単独の部隊となり、戦自体が歩兵中心に代わっていきました。」(典拠:『戦略戦術兵器事典 中国編』)

https://chinahistory3000.web.fc2.com/point170.html

(続く)