太田述正コラム#14954(2025.5.20)
<渡辺信一郎『中華の成立–唐代まで』を読む(その20)>(2025.8.15公開)
「秦国の改革過程も三晋の改革同様に半世紀あまりの長期にわたった。・・・
<まず、>秦国では、官吏と百姓とがともに武装を許され、租税を媒介に統治者集団と被支配者集団とを構成するようになっ・・・<た。>
その後・・・秦国東部に県制が施行された<が、この>ことと戸籍による百姓・小農の編成とは相互関係にあり、東に対峙する大国魏との戦争を遂行するための軍事的要請にこたえたものであろう。・・・
秦の孝公<(注30)>(在位前361~前338)・・・に仕え<た>・・・商鞅<(注31)>(?~前338)・・・の体制改革は7年をへだてて二度におよんだ。
(注30)「戦国時代の秦の第25代公。姓は嬴(えい)・・・。即位するや、・・・仁政に努め<、>孤児や寡婦を救済し、戦士を優遇し、また論功行賞を公平にするとともに・・・国中に布告を出して国政の立て直しをはかり、魏からやってきた商鞅を起用して抜本的な国政の改革(商鞅の変法)を断行、・・・覇者と認められ<た>・・・穆公亡き後の衰退した秦を強力な中央集権国家として生まれ変わらせた。都を櫟陽から咸陽に遷都。対外的にも魏を破るなど、富国強兵に努めた中興の祖。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%AD%9D%E5%85%AC_(%E7%A7%A6)
(注31)「戦国時代の秦国の政治家・将軍・法家・兵家。姓は姫、氏は公孫。名は鞅。また、衛の公族系のために衛鞅(えいおう)ともいう。なお商鞅とは、後に秦の商・於に封じられた・・15邑を下賜<された>・・ため商君鞅という意味の尊称である。法家思想を基に秦の国政改革を進め、後の秦の天下統一の礎を築いたが、性急な改革から自身は周囲の恨みを買い、逃亡<し、>・・・封地の商で兵を集め・・・挙兵するも秦軍に攻められ戦死した。・・・
<ちなみに、>公孫鞅は、若い頃は魏の恵王(在位:紀元前370年 – 紀元前335年)の宰相で、韓の公族出身である公叔痤の食客となり、中庶子に任ぜられる。公叔痤は死去する際に、恵王に後継の宰相として公孫鞅を推挙した。しかし恵王はこれを受け入れず、公叔痤はこれを見て「公孫鞅を用いることをお聞き入れくださらないならば、私はやはり臣下よりも主君を優先せねばならぬから(鞅が他国に行けば強敵となるため)お前を殺すように進言した。お前はすぐに逃げた方がよい」と述べたが、公孫鞅は「私を用いよというあなたの言葉を王が採用出来ないならば、私を殺せというあなたの言葉も王が採用するはずがありません」と述べて、かえって逃亡しなかった。公孫鞅の考えどおり、恵王は公叔痤が耄碌してこんな事を言っているのであろうと思い、これを聴かずに公孫鞅を登用も誅殺もしなかった。<その後、>公孫鞅は魏を出て秦に入国<したもの。>」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%95%86%E9%9E%85
⇒商鞅の変法より前、孝公が仁政を行っていたというのは興味深いものがあります。
秦は現在の甘粛省に位置する犬丘という辺境がもともとの本拠地
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%AD%9D%E7%8E%8B_(%E5%91%A8)
https://baike.baidu.com/item/%E7%8A%AC%E4%B8%98/7131595
で、仁政を行っていたと私が見ている殷(コラム#省略)の中心地から遠く、孝公が殷由来の仁政を行ったとは考えにくいところ、私の取り敢えずの仮説は、孝公の嫡子で後継の秦公となり、後に初代の秦王となった恵文王
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%81%B5%E6%96%87%E7%8E%8B_(%E7%A7%A6)
の側室で、後に宣太后として、その異父同母弟や同父母弟と共に秦を牛耳ることになる、楚の公女の羋八子
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%AE%A3%E5%A4%AA%E5%90%8E
の存在が、不明である孝公の妃の少なくとも1人が楚の公女であった可能性を推認させ、彼女を通じて、江南人の人間主義/仁政観念に孝公が感化されていた、といいうものです。(太田)
前356年に実施された商鞅第一次変法は、百姓が編成する小家族の家(世帯)を単位都市、耕地・宅地・奴隷その他の動産とともに、これを戸籍に附載し、軍役をになわせるという改革である。
法家の韓非子はのちに、かれらを「耕戦の士」とよんでいる。
こうして戦争に従事して軍功をあげたものは、上級の爵位を授けられ、田宅地の専有限度の拡大など様ざまな恩典を受けた。
⇒爵位にどの程度の相続性があったのかを知りたいところですが・・。(太田)
この社会の軍事的編成は、百姓だけなく秦国宗室にもおよんだ。
軍功のない公族は、宗室の戸籍に附載されず、特権を付与されなくなった。・・・
軍事的功績によってのみ支配者身分を得るという秦の爵制秩序は、族制的支配者集団の解体と直接生産者小農民の居住地による編成をあらわし<てい>・・・る。・・・
商鞅はまた、5家、10家ごとに什伍制組織を作らせ、住民どうし相互に犯罪を監視しあうようにした。・・・
それは・・・国家の直接的な小農[や都市住民]支配<、と、>・・・小農[や都市住民]世帯相互に分断をもたらし<、>・・・流動性の高い・・・社会・・・を生みだし、・・・小農[や都市住民]相互にみずから統合規範を作ってそれらを共有しうる新たな地縁組織を形成していくうえで大いなる阻害要因とな<り、ひいては、>・・・専制主義的な政治支配を再生産する<根本原因>となっていった。」(60~61、64~66)
https://www.y-history.net/appendix/wh0203-045_1.html ([]内)
⇒商鞅自身が15邑を与えられたことから、商鞅変法以降も、邑制が郡県制と併存していたことが窺われますが、そのあたりのことを説明したものをネット上ですぐ見つけることができませんでした。(太田)
(続く)