太田述正コラム#14956(2025.5.21)
<渡辺信一郎『中華の成立–唐代まで』を読む(その21)>(2025.8.16公開)

 「第一次変法が施行されてあしかけ7年、「民は公戦に勇み、私闘に怯えるようになって、郷邑は大いに収まった」(『史記』商君列伝)。
 そこで商鞅は、前350年、第二次変法に着手する。
 第一に、商鞅は、新たに国都咸陽<(注32)>を造成し、雍城から都を遷した。

 (注32)「古代<支那>では、山の南にあるものを陽、水の北にあるものも陽と呼びます。(逆に山の北にあるものは陰、水の南にあるものは陰です。・・・)
 ・・・咸陽は山の南、水の北にあり、どちらも陽であることから、咸陽、『咸みな陽よう』という名が付いたようです。
 咸陽は、もともとは、殷の紂王を倒した<周の>武王の祖父にあたる、王季、という人が拠点としていた土地でしたが、そこに衛鞅は宮廷を開き、都としたようです。」
https://kakuyomu.jp/works/16817330648034698470/episodes/16817330648248756791

 第二に、小都・郷・邑・聚と呼ばれる大小の聚落を再編し、城郭をもつような大規模聚落を県<(縣)>、中級聚落を郷、小聚落を里とし、県-郷-里の三階層制聚落群からなる三一(別の記述では四一)の[31〈(41)〉県からなる]県制を秦国全土に施行した・・・。
 県には中央政府から県令・県丞・県尉を派遣して行政統治をおこなった。

⇒「次に実施されたのが、爵制のような秩序を、家庭内にまで広げることです。
 衛鞅は、父と子、兄と弟が同じ部屋で休んでいた風習を禁止しました。はっきりと主権を誰が握っているか、明らかにしたわけです。
 当時の秦の風習では、男女や、長幼(老人と若者)の区別(序)が家庭内で設けられていませんでした。フラットかつあいまい、混じり合った状態だったわけです。それを衛鞅は序列が付くようにしました。
 <支那>では、というか、儒教では『分(ぶ)』というものを重視します。父の分、子の分、兄の分、弟の分、それぞれの立場をはっきりさせることで、秩序がおさまりやすくしたわけです。」(上掲。[]内も。但し、[]内の〈〉内は
https://kotobank.jp/word/%E9%83%A1%E7%9C%8C%E5%88%B6-58320
)を渡辺は省いていますが、困ったことです。
 法は(王を除く)平等主義、爵は(相続性が小さければ小さいほど)能力主義、に基いているのに対し、家父長制は不平等主義に基づいていることから、法爵と家父長制は矛盾しているからです。(太田)

 県制の施行をうけて、第三に耕地を1000畝(10頃)と100畝(1頃)に区画する道路を作って耕区整理を実施し(阡陌(せんぱく)制・・・)、分田制を制度化した。
 第四に度量衡制度を長征して、租税負担の公平化をはかった。
 その2年後、前348年には、県から中央政府への租税貢納制度である賦制を整備している。<(注33)>

 (注33)「井田法(什の一税)から、土地を測っての課税へ税制が変化したとされます。
 この改革が、少し遅れて実施されたのは、国の実力の強化、統治機構の整備、土地制度の改革、基準の統一、がなされてはじめて、税の収入の向上が図れた、制度が変えられたと考えるべきでしょう。」(上掲)

 前356年から前348年にいたる秦国の体制改革は、秦国を富強に導き、戦国六国を滅ぼして天下統一をなしとげる基盤となった。
 それとともに、秦をうけた漢以後の専制国家のひな型を創りあげるものとなったのである。・・・」(66~67)

⇒自由人男子青壮年皆兵制はアテネの直接民主制やモンゴルのクリルタイといった民主主義的要素がなければ成り立たちえないとまで断定できるかどうかはともかくとして、自由人男子青壮年皆兵制には民主主義的要素がつきものであるというのに、戦国時代の秦が、(それが秦だけの責任とは言えないのではないか、ということを後で述べますが、)自由人男子青壮年皆兵制を採用したにもかかわらず、民主主義的要素がかけらもなく、かつ、家父長制を敷いてかかる要素の永久排除を目論んだ、ということが、専制と軍事軽視と非仁政で特徴づけられるところの悲劇的な支那史の展開をもたらすことに繋がった、というのが、取り敢えずの私の仮説です。(太田)