太田述正コラム#14960(2025.5.23)
<渡辺信一郎『中華の成立–唐代まで』を読む(その23)>(2025.8.18公開)

⇒晋王を覇者とする反楚、ひいては反江南・中原(華夏)勢力同盟なる合従策、を、正面から打ち破ることが不可能であることを自覚した(南蛮の)楚は、(半西戎の)秦と、縁戚関係を深めていくことで、ステルスの連衡策を推進し、(楚と違って公権/王権が強く皆兵制等の確立が容易な)秦を使って、(広義の)中原(華夏)と江南の大統一を成し遂げ、その上で、(以下は結果論ですが、)秦という借り着を脱ぎ捨てて漢を名乗り、江南文化を基調とする漢人文明を創始した、と、私は見るに至っています。
(このステルス連衡説を私に思いつかせるきっかけとなったのが、BC506の柏挙の戦いで楚が呉に壊滅的敗北を喫した柏挙の戦いの後に、楚の昭王が舅である秦の哀公に救援を懇願し、哀公が援軍を送ったおかげで楚が滅亡を免れた史実
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%9F%8F%E6%8C%99%E3%81%AE%E6%88%A6%E3%81%84
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%93%80%E5%85%AC_(%E7%A7%A6)
だ。)
 司馬遷が、蘇秦と張儀に関して筆を曲げざるをえなかったのは、かかる、漢当局にとっての最大の秘密を隠蔽することが、『史記』を書く条件として彼に課されていたからである、とも。
 つまり、実際の張儀は、楚と秦のステルス連衡を推進する目的で楚のエージェントとして活躍した人物であったのに対し、実際の蘇秦は、これに対抗し、反楚に反秦を加える形で、楚や秦以外の特定の国の王を覇者とする同盟を構築しようとしてダメ元で活躍した人物だったのに、司馬遷は、時系列を逆転させることでこの史実を隠蔽しようとした、と、見るわけです。(太田)

 郡県制の進展とともに、競合する王権を凌駕する統一権力の称号が模索されはじめた。・・・

⇒となれば、斉秦互帝は、楚・秦合作の、しかし表見的には秦単独によるところの、戦国時代の関係諸国の統一に向けたアドバルーンであって、それは、当時、楚・秦に次ぐ強国であった斉を覇者とする反楚・秦同盟が樹立される可能性があるかないかを見極めるために飛ばされた、というのが私の見方である、ということになりそうです。(太田)

 荀子<(コラム#14163)>(荀況)は、・・・社会のなりたちから戦国国家のしくみまで、これを一貫した論理で説明した唯一の思想家である。
 かれは、前3世紀半ば、・・・商鞅の変法からほぼ1世紀たち、・・・王権のもとに宰相率いる官僚制がととのい、官僚制によって百姓を支配するようになっていた<ところの、>・・・秦国<、>を訪れ、ときの宰相范雎<(注36)>(はんしょ)(?~前255)と会見した。・・・」(68~70)

 (注36)「范雎は魏の人で、・・・秦に入った范雎は・・・昭襄王に推挙されたが、登用されなかった。
 当時、秦の宰相は穣侯魏冄で昭襄王の母<で楚の公女たる>宣太后の弟であった。穣侯は絶大な権力を誇り、名将の白起を使って周囲の国々を何度も討って領土を獲得していた。しかしその領土は穣侯や穣侯と同じく太后の弟の華陽君羋戎、あるいは昭襄王の弟の高陵君・涇陽君などが取ってしまい、その財産は王室よりも多かった。
 1年余りを昭襄王に迎えられないまますごした范雎は、昭襄王に対して「とにかく試してください。良ければ用い、悪ければ打首にされても構いません。ただただ王様のことを思っているのです」と手紙を書いて自分の意見を聞いてくれるように訴えた。これを受けて昭襄王は范雎を招いた。謁見するにあたり范雎は後宮へと入り込み、怒った宦官が「王のご到着だ」と言って追い払おうとしたが、范雎は「どうして秦に王がいようか。いるのは太后と穣侯だけだ」と言い放った。
 昭襄王はそれを全く不問とし、范雎を迎え入れて話を聞こうとした。しかし盗み聞きするものがいたので、范雎はまず外事について説いた。曰く「穣侯はいま韓や魏と結んで斉を討とうとしているが、これは間違いです(仮に勝って領土を奪ってもそれを保持することができないため)。それよりも遠く(趙・楚・斉)と交わり、近く(魏・韓)を攻めるべきです。そうすれば奪った領土は全て王のものとなり、更に進出することができます」と。これが遠交近攻策である。
 この進言を受け入れた昭襄王は、魏を攻めて領土を奪い、韓に対して圧迫をかけた。その成果に満足した昭襄王は、范雎を信任することが非常に厚くなった。そこで范雎は昭襄王に対して、穣侯たちを排除しなければ王権が危ういことを説いた。これに答えて昭襄王は太后を廃し、穣侯・華陽君・高陵君・涇陽君を函谷関の外へ追放した。こうして王権の絶対性を確立し、国家が一纏めとなった秦は、門閥の影響が大きい楚など諸国を着実に破っていくことになる。・・・
 <但し、>北宋の蘇轍は范雎の行跡について「宰相として秦に利益になったことは少なく、害を与えたことは多かった」と批判した。范雎の勧告により昭襄王が朝廷の権力を専横していた魏冄を失脚させたのは正しかったが、宣太后まで退かせたのは母子の情を絶たせた仕打ちだった。また、政治的に対立した白起を死に追いやり、王稽と鄭安平を起用したことは人事の失敗であっただけでなく、民衆の恨みと兵士たちの挫折を招いたため、范雎の功績は魏冄に比べて十分の一・二にも及ばなかった。以上の点で蘇轍は范雎・・・は自らの栄達のために計策を出すことはできたが、秦にとって有益なことをもたらすことはできなかったと厳しく評している。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%8C%83%E9%9B%8E

⇒蘇轍の范雎評に、私は必ずしも賛成ではありませんが、昭襄王が、自分の代での天下統一を挫折させてしまった、のは間違いないでしょう。
 とはいえ、昭襄王は、「楚の公女<の>・・・華陽夫人<を、楚からもらい受けて、>・・・次男の嬴柱(後の孝文王)に嫁<がせており、>昭襄王42年(紀元前265年)、<その>2年前に魏で昭襄王の長男の悼太子が病死していた<ことに伴い>、・・・嬴柱を安国君として太子に指名し」、
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%8F%AF%E9%99%BD%E5%A4%AA%E5%90%8E
やがて、この華陽夫人が、後の始皇帝・政の、後に父親になる異人、を養子にすることで、秦と楚のステルス連衡が再活性化するのですから、昭襄王は、少なくとも、秦による天下統一を後退はさせなかった、と言えるでしょうね。(太田)

(続く)