太田述正コラム#14962(2025.5.24)
<渡辺信一郎『中華の成立–唐代まで』を読む(その24)>(2025.8.19公開)


[試論:楚秦ステルス連衡]

一 春秋の覇者達

 BC770年に周が東遷し、春秋時代が始まるが、その後も周の力はどんどん弱体化していき、周の権威を積極的に認める諸国の公達の中から、日本で天皇の下で幕府を開いた征夷大将軍とも言うべき、拡大中原(華夏)の覇者、を目指す者が出てきて、最初の覇者にBC651年に就いたのが、中原外ながら、周建国の功臣太公望呂尚を始祖とする斉の桓公だったが、その後の失政や桓公死後の後継争いで斉は幕府もどきの座から転落する。
 その後、領土を拡大していた、やはり中原外ながら、周公室に繋がる姫姓の晋
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%99%8B_(%E6%98%A5%E7%A7%8B)
で、秦の穆公の助力の下、晋の文公(在位:BC685~BC643年)となった重耳が、BC632年に覇者となった。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%98%A5%E7%A7%8B%E6%99%82%E4%BB%A3
 爾後の覇者については、時代をずっと下った清の全祖望・・黄宗羲に信服していた1705~1755年の儒学者
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%85%A8%E7%A5%96%E6%9C%9B
・・が「春秋五覇失実論」で展開した説
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%98%A5%E7%A7%8B%E4%BA%94%E8%A6%87
に従い、事実上、晋公が代々継承していった、というのが私の見方であり、(文公の子で次に即位した)晋の襄公(在位:BC628~BC621年)、
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%A5%84%E5%85%AC_(%E6%99%8B)
そして、その3代後の景公(在位:BC600~BC581年)、
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%99%AF%E5%85%AC_(%E6%99%8B)
更に、その2代後で襄公の曾孫の悼公(在位:BC586~BC558)
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%82%BC%E5%85%AC_(%E6%99%8B)
が名実ともの覇者達だった。
 ちなみに、晋の文公の父の献公(在位:BC676~BC651年)は、「西虢・虞・魏等の国を攻め滅ぼし、「十七の国を併呑し、三十八の国を服属させた」<ものの、>・・・晩年は愛妾の驪姫(りき)(異民族の驪戎の娘)の讒言を信じ、太子・・・を殺し、公子重耳(ちょうじ)・・・公子夷吾・・・などを遠ざけたために、晋は大きく混乱した。これを『驪姫の乱』と呼び、これ以後、晋は太子以外の公子を国外に出す伝統を守り、<やがて、>このため公族の力が非常に弱くなってい<くことになる>。・・・<献公の>子女<に、>申生(共太子)<、>文公 重耳(第24代晋公)<、>恵公 夷吾(第22代晋公)<、>奚斉(第20代晋公)<、>卓子(第21代晋公)<、>穆姫(秦の穆公の夫人)<、らがいる。>」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%8C%AE%E5%85%AC_(%E6%99%8B)

二 第一次楚秦ステルス連衡時代

 さて、上出の晋の景公とほぼ同時代人であったところの、楚の荘王(そうおう)(在位:BC614~BC591年)は、南蛮(江南)出身の楚・・すなわち、私見ではその住民の大部分が弥生的縄文人である楚・・には、中原(狭義)内外の、周の邑制の下で封じられたことに始まる諸国・・私見では縄文的弥生人が普通人を率いている諸国・・、や、楚自身のようなそれ以外の諸国、とが、拡大中原(拡大華夏)を舞台に相互に、ありとあらゆる組み合わせで繰り返してきた諸戦争を、これら諸国を統一することでもって廃絶させる使命がある、と、いかにも弥生的縄文人らしい決意をした、と、私は想像するに至っている。
 周によって封じられた諸国中の特定の一国にそれをやらせるわけにいかなかったのは、縄文的弥生人が指導層では、国と国の間の戦争だけではなく、国内における紛争も頻発することから、統一まで無限に近い時間がかかりかねない上、仮に統一されたとしても、内紛によってすぐに分解してしまうことを危惧したからである、とも。
 (ちなみに、楚に関しては、BC11世紀から記録が残っているのに対し、
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%A5%9A_(%E6%98%A5%E7%A7%8B)
同じく南蛮(江南)出身の越に関しては、記録が残っているのはBC600年頃からに過ぎず、しかも、中原の夏の流れを汲むと自称していたらしいし、
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%B6%8A
また、やはり南蛮(江南)出身の呉に関しては、記録が残っているのはBC585年頃からに過ぎず、しかも、中原の「周王朝の祖の古公亶父の長男の太伯(泰伯)が、太伯の次弟の虞仲(呉仲・仲雍)と千余家の人々と共に建てた国である」と自称していたらしいことから、
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%91%89_(%E6%98%A5%E7%A7%8B)
楚は越と呉のどちらも、新参者で、しかも中原人(華夏人)に媚びている、と、見下していたに違いない。)
 また、この関連で、「楚<が、>鬻熊(媸酓)の代に興った国であり、・・・その後、鬻熊の曾孫の熊繹が周の成王から子爵に封じられた。周の昭王の討伐を受けるが、これを撃退し、昭王を戦死、あるいは行方不明にさせたとされる。その後、熊繹から数えて6代目の玄孫の熊渠の時代に「我は蛮夷であるから<支那>の爵位にあずからない」とし、自ら王号を称するようになった。しかし周に暴虐な厲王が立つと、恐れて王号を廃止した。18代目の11世の孫の熊徹の時代に侯爵国であった随を滅ぼし、それを理由に周に陞爵を願い出たが、周に断られたために再び王を名乗るようになった。熊徹が楚の初代王の武王となる。文王の時代に漢江・淮河の流域に在った息・蔡・陳などの小国十数国を併合或は従属させ強大化を果たす。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%A5%9A_(%E6%98%A5%E7%A7%8B)
という、周によって封じられた諸国など何するものぞ、という気概の国であったことを想起すべきだろう。

(続く)