太田述正コラム#14986(2025.6.5)
<渡辺信一郎『中華の成立–唐代まで』を読む(その36)>(2025.8.31公開)

四 秦による天下統一期

 昭襄王(BC325~BC251年。在位:BC306~BC251年)は、「年少で即位したため、母である宣太后が摂政し、宣太后の弟であった魏冄と華陽君(羋戎)の2人が実権を握・・・った」ところ、「昭襄王3年(紀元前304年)、冠礼(成人の礼)<が>行<われ>た」ものの、「魏冄・涇陽君・高陵君・華陽君らを秦の国内であった函谷関の外に追放し<、>[魏出身の]范雎<[(はんしょ。?~BC255年?)]を>宰相<にした>・・・昭襄王42年(紀元前265年)」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%98%AD%E8%A5%84%E7%8E%8B
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%8C%83%E9%9B%8E ([]内)
まで、楚秦ステルス連衡を抱懐する楚出身勢力が秦を牛耳っていたのはもちろんだが、実際には、それ以降も、いや、昭襄王逝去後も、この時・・BC306~304年の間・・に確立された戦略に基づいて秦は行動して行くことになった、と、私は見ている。
 それは、武王の不慮の死と昭襄王の就位により、楚出身勢力が秦を牛耳っていることが明白な状況が予定していたよりも前倒しで到来してしまったことから、リスクはあるけれど、秦による天下統一にも前倒して着手することとすると共に、楚秦両公室の一体化を盤石なものにすべく、(昭襄王の子でBC267年に魏への人質時代に病死してしまう悼太子
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%82%BC%E5%A4%AA%E5%AD%90
にも楚の公室の女性を送り込んであった可能性があるが、)「楚の公女<(後の華陽夫人)を<、お付きの楚男性公子群を伴う形で、>昭襄王の次男の嬴柱(後の孝文王)<の継室に迎え>」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%8F%AF%E9%99%BD%E5%A4%AA%E5%90%8E
、それと同時に、楚秦両公室の一体化の顕在化が残りの全諸国の合従をもたらさないよう、秦は楚と「ガチンコ戦争」を間歇的に続け、何らかの時点で楚を「軍事的に打倒」し楚を「併合」する。
 そして、かかる戦略の一環として、まず、「昭襄王42年(紀元前265年)、<その>2年前・・・の悼太子<の>病死<を受け>・・・、昭襄王<に>嬴柱を安国君として太子に指名<し、>この時、安国君の正室として華陽の号を<贈らせた。>」(上掲)
 この戦略は結果的に成功を収め、80年超後のBC221年に、昭襄王のひ孫の政によって天下統一がなるわけだ。
 しかし、華陽夫人には(後の孝文王との間に)男の子ができず、その養子となった子楚(後の荘襄王)に楚公女の妃はおらず、また、子楚の子の政は、楚の血が薄く、かつ、母親から楚人的な訓育を受けることがなかったため、
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%A7%8B%E7%9A%87%E5%B8%9D ←政に係る事実関係
楚秦両公室の一体化は最後まで盤石なものにはならず、このことが、後で述べるように、致命的な悪影響を爾後の支那史に与えることになる、と、見るわけだ。
 以下、果たして、このような見地から、爾後の天下統一の進捗や秦楚関係の推移を本当に説明することができるかどうかを検証してみよう。↓

 「昭襄王4年(紀元前303年)、昭襄王は魏を討ち、魏の蒲阪・晋陽・封陵の地を取った。しかし翌昭襄王5年(紀元前302年)に魏の襄王が秦に来朝したため、蒲阪の地を還した。・・・

⇒侵攻目的が天下統一への着手ではないと装うため、魏の首都を目指さず、中途で侵攻を切り上げ、しかも、奪取地域の一部を返還したわけだ。(太田)

 昭襄王10年(紀元前297年)、楚の懐王が秦に入朝したが、昭襄王は懐王を信じず、秦に拘留した。
 昭襄王11年(紀元前296年)に懐王は趙に逃げたが、趙が受け入れなかったため再び捕らえられ最後は秦で死んだ。・・・

⇒ここは、秦楚一体視がなされないように、両王が協力して大田舎芝居をやってのけた、ということでは?(太田)

 昭襄王11年(紀元前296年)、斉の宰相となっていた孟嘗君は<、秦に対する個人的恨みもあり>、斉・韓・魏を主力とし、趙(に併合されていた中山<を含む>)・宋の軍と合わせて秦に攻め込んで来た。秦は函谷関で敗れ・・・(塩氏の戦いまたは五国攻秦の戦とも)<、>昭襄王は・・・河北および封陵の地を与えて和睦した。・・・

⇒楚が合従軍からイチ抜けの状態ながら、そのことが余り問題になった形跡がないのは、上出の芝居の効果ということでは?(太田)

 昭襄王13年(紀元前294年)、・・・韓を討ち、武始の地を取った。・・・昭襄王14年(紀元前293年)、・・・韓・魏を討<っ>た。伊闕の地で首を斬ること24万を数え、5城を抜くことに成功した(伊闕の戦い)。秦が魏を伊闕で破ると聞くと、東周は秦に攻められることを恐れて、使者を派遣して和議を講じるようになった。・・・引き続き魏を討<っ>た。黄河を渡って魏の安邑以東、乾河にいたる地を取った。翌年・・・垣の地を取り、大小61もの城を落とし・・・た。
 昭襄王15年(紀元前292年)、・・・魏を討<ち>、魏の軹と鄧の地を取った。・・・
 昭襄王17年(紀元前290年)も引き続き魏を討った。魏は河東の地、方四百里を献じて講和を求めたが受け入れず、・・・60余りの城を陥れることに成功した。
 昭襄王18年(紀元前289年)も引き続き魏を討った。・・・垣・河雍・決橋を攻めてこれらを取った。

⇒対魏から始めたサラミ戦術を対韓、対魏にも適用したということ。(太田)

 増強する国力を背景に紀元前288年に昭襄王は西帝を称した。・・・<そして、>斉の湣王に東帝の帝号を贈ったが、斉がすぐに帝号を捨てたので、昭襄王もとりやめた。・・・

(続く)