太田述正コラム#14992(2025.6.8)
<渡辺信一郎『中華の成立–唐代まで』を読む(その39)>(2025.9.3公開)
「蒙驁<(もうごう。?~BC240年)>は、・・・斉の出身<で>・・・蒙武の父<、>蒙恬・蒙毅の祖父<だが、>荘襄王<の時から秦で活躍し、>秦王政3年(紀元前244年)、韓を攻めて13城を取る。秦王政5年(紀元前242年)、魏を攻めて、酸棗など20城を奪い平定し、はじめて東郡を置いた。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%92%99%E9%A9%81
⇒これで、秦と斉は東郡回廊を通じて接壌国になり、三晋の韓魏と趙は南北に分断されてしまったわけだ。
(下掲中の「函谷関の戦いが起きる前」中の2枚目の地図参照。↓
https://rekishi-shizitsu.jp/kankokukannotatakai/ )
しかし、斉は、魏、趙両国との接壌国であったというのに、秦を「信頼」し、この際にも、そして、その後においても、三晋と合従して秦に対抗しようとはしなかった。
昭襄王の斉秦互帝策は見事なまでに功を奏したと言えよう。
いずれにせよ、ここまでは、昭襄王の時から予定されていたことであると考えられ、当時の、秦内の楚韓趙勢力のいずれも異議を挟む余地はなかった筈だ。
なお、私は、蒙驁は斉がスパイとして秦に送り込んだと考えており、呂不韋は、それを承知の上で、蒙驁をこの任務に起用することによって、斉に疑心暗鬼を生じさせないようにした、と、見ているところだ。
ちなみに、呂不韋はスパイを逆利用する達人だ。
秦王政元年(紀元前246年)に、自分と同郷の韓から送り込まれた鄭国に「涇水を鑿って中山の西から瓠口まで渠(水路)をつくり、北山にそい、東のかた洛水に注<がせる>」
https://ai-you.work/2024/07/10/%e5%a4%a9%e4%b8%8b%e3%81%ab%e3%81%8b%e3%81%91%e3%81%9f%e6%b8%a0%e3%80%80%e9%96%a2%e4%b8%ad%e3%81%ab%e9%95%b7%e5%a4%a7%e3%81%aa%e7%81%8c%e6%bc%91%e6%b0%b4%e8%b7%af%e3%82%92%e5%ae%8c%e6%88%90%e3%81%95/
工事に着手させ、鄭国の素性が完全に露見した後も工事を続行させ、10数年かけて完成させ、「『史記』河渠書<が>「関中(渭水盆地)・・・は沃野となり、凶年はなくな<り、>秦は富強となり、<おかげで>諸侯を併せ<ることができ>た」と記」す大成果を上げている。(太田)
「秦王政6年(紀元前241年)、楚・趙・魏・韓・燕の五国合従軍が秦に攻め入ったが、秦軍は函谷関で迎え撃ち、これを撃退した(函谷関の戦い)。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%A7%8B%E7%9A%87%E5%B8%9D
「趙・楚・魏・韓・燕は、秦を共同で攻撃するために、総大将を楚の考烈王、総司令を春申君として合従軍を組んだ。しかし、実際の合従軍の盟主は趙だとも考えられている。その理由として、まず楚はこの年に郢から寿春に遷都したことが挙げられる。そのため、楚は合従軍に大軍を送ることが不可能であったと考えられている。また、趙は長平の戦いや邯鄲の戦いなど、何度も秦に対して敗戦を重ねていて、秦への恨みが深かったからである。・・・
合従軍は秦の寿陵を取り、函谷関を攻撃した。
合従軍に対して、秦軍は函谷関で迎え撃った。・・・
・・・今回の合従軍・・・は以前(函谷関の戦い(紀元前318年)・函谷関の戦い(紀元前298年)・河外の戦い)とは異なり、函谷関を攻める軍以外の、別働隊を用意していた。趙の龐煖が総大将として、趙・楚・魏・燕の四国の精鋭部隊を率いて蕞(現在の始皇帝陵の付近)を攻めたが、落とせなかった。蕞は秦王都咸陽にかなり近く、秦は滅亡の危機に陥っていた。
函谷関でも秦軍が攻撃すると、合従軍は敗北した。合従軍は、秦の味方である斉を攻撃し、饒安(現在の河北省滄州市塩山県の南西)を占領して解散した。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%87%BD%E8%B0%B7%E9%96%A2%E3%81%AE%E6%88%A6%E3%81%84_(%E7%B4%80%E5%85%83%E5%89%8D241%E5%B9%B4)
⇒この最後の函谷関の戦いの時、楚は総大将と総司令を引き受けつつも、形だけの楚部隊しか提供しなかったことによって、秦に薄氷の勝利をもたらすことができ、楚秦ステルス連衡は、当時の秦の実質最高権力者であった呂不韋の与り知らない形でだが、引き続き機能していた、というわけだが、考えても見よ、この時点において、楚秦ステルス連衡が非ステルス化していたとすれば、さすがの斉も目が覚めて反楚秦合従に加わっていた可能性が高く、その場合、趙・魏・韓・燕・斉軍が、趙・魏・韓・燕の対斉控置兵力も動員する形で秦・楚に指向することができるようになり、単純化するために戦車数や騎兵数を捨象して戦国時代末期の兵力数だけで比較すると、秦100万+楚100万=200万、対、韓30万+魏70万+趙100万+斉70万+70万=340万、となり、
https://articles.mapple.net/bk/24035/?pg=2
秦楚連衡軍は合従軍に敗れ去り、秦も楚も滅亡していたことだろう。(太田)
(続く)