太田述正コラム#14994(2025.6.9)
<渡辺信一郎『中華の成立–唐代まで』を読む(その40)>(2025.9.4公開)
「秦王政9年(前238年)、政・・・よる親政が始ま<り>・・・呂不韋を除<去し、>・・・<かつて>荀子に学<んだ>・・・李斯<を重用した。>・・・
⇒李斯の出身の「楚の北部にある上蔡(現在の河南省駐馬店市上蔡県)」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%9D%8E%E6%96%AF
は、春秋時代においても既に楚領であった場所であるところ、荀子の下で学んだ彼は、華陽太后(~秦王政17年(前230年))
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%8F%AF%E9%99%BD%E5%A4%AA%E5%90%8E 前掲
の意向を汲んで、秦王政9年(前238年)に、政に対して、本人が趙から秦に到着した時以降において、楚人教育を施し続けさせるべく、呂不韋がリクルートした人物であった、というのが私の見方だ。
だからこそ、親政を開始してからの政も李斯を重用することになり、華陽太后が亡くなってからも重用を続けたのではないか、
私は、この李斯は、すぐ下に出てくる韓非に比べれば、若干なりとも荀子のより忠実な弟子だったとも見ている。
その荀子(BC313/298~BC238年)なのだが、斉の稷下の学士の祭酒(学長)であったことが良く知られているけれど、趙出身で、「讒言のため斉を去り、楚の宰相春申君に用いられて、蘭陵の令となり、任を辞した後もその地に滞まった」」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%8D%80%E5%AD%90
人物であり、私見では、それは、秦の「孝公<(BC382~BC338年)によるところの、>仁政に努め<て>孤児や寡婦を救済し、戦士を優遇し、また論功行賞を公平にするとともに・・・秦の外征<を>開始<し、>・・・[儒家の述べる徳治のような信賞の基準が為政者の恣意であるような統治ではなく、厳格な法という定まった基準によって国家を治めるべしという立場<のいわゆる>・・・法家<の>]商鞅を起用し<た>抜本的な国政の改革(商鞅の変法)を断行<した>」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%AD%9D%E5%85%AC_(%E7%A7%A6)
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%B3%95%E5%AE%B6
統治を、(前述したように、)宰相が范雎時代の昭襄王の秦を訪ねて実際に確認した後、理想化した上で理論化したものであるところ、それはまさに、楚の人々が理想とした統治であったのであって、だからこそ、楚の春申君は荀子を楚に招き、荀子は楚に骨を埋めることになった、
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%8D%80%E5%AD%90 前掲
のである、と、私は考えるに至っている。
すなわち、荀子は、「人間の性を「悪」すなわち利己的存在・・人間は本来普通人!(太田)・・と認め、君子は本性を「偽」(人為的なもの)、すなわち後天的努力(すなわち学問を修めること)によって修正して善へと向かい、良い統治者・・縄文的弥生人!(太田)・・となるべきことを勧めたのだ。
そして普通人だけだと「各人が社会の秩序なしに無限の欲望を満たそうと<して>、奪い合い・殺し合いが生じて社会は混乱して窮乏する・・・ゆえに人間はあえて<統治者>の権力に服従してその規範(すなわち「礼」<と「法」>)に従うことによって<初めて>生命を安全<に>し<、かつ>窮乏から脱出<できる、>と説いた。」
その上で、正当防衛以外の暴力行使・・これは私が補った(太田)・・、や、非生産活動たる統治に携わる者達の存在、や、人間の基本的ニーズを超える欲望充足欲求、を、否定的に見る墨家は間違っているとした。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%8D%80%E5%AD%90
他方、同じく荀子の下で学んだところの、法家の代表格の韓非子は、私に言わせれば、人間は普通人でしかありえないという前提の下、特定の普通人が為政者として天下を統一しかかる統一状態を維持す<るしかない>とし、そのためには、この為政者が、「儒家の述べる徳治のような信賞の基準が<この>者の恣意で<しかない>ような統治ではなく、厳格な法という定まった基準によって国家を・・・中央集権的<に>・・・治めるべ<き>」であり、その上で、この「法<のほか、>術(いわば臣下のコントロール術)を用いた・・・結果主義・能力主義、信賞必罰主義、職分厳守・・・国家運営<を行うべきである、と>・・・説いた」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%B3%95%E5%AE%B6
ところの、いわば荀子の思想をつまみ食いした上極端化したところの、荀子の不肖の弟子なのだ。
政が、この韓非子の「『韓非子』に感嘆し<、>著者の韓非は韓の公子であったため、事があれば使者になると見越した秦王政は韓に攻撃を仕掛けた<ところ、>果たして秦王政14年(前233年)に使者の命を受けた韓非は謁見した<のだが、>韓非はすでに故国を見限っており、自らを覇権に必要と売り込んだ<のだけれど>、これに危機を感じた李斯<ら>の謀略にかかり死に追いやられた。
<ちなみに、>秦王政が感心した韓非の思想とは、『韓非子』「孤憤」節1の「術を知る者は見通しが利き明察であるため、他人の謀略を見通せる。法を守る者は毅然として勁直であるため、他人の悪事を正せる」という部分と、「五蠹」節10文末の「名君の国では、書(詩経・書経)ではなく法が教えである。師は先王ではなく官吏である。勇は私闘ではなく戦にある。民の行動は法と結果に基づき、有事では勇敢である。これを王資という」の部分であり、また国に巣食う蟲とは「儒・俠・賄・商・工」の5匹(五蠹)であるという箇所にも共感を得た。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%A7%8B%E7%9A%87%E5%B8%9D
とされている。
で、私見なのだが、李斯が韓非子を排除したのは個人的な理由ではなく、政が、李斯が取り入れようと考えるようになったところの、墨家の言う義、に関心のない韓非子の思想に傾倒し、より弥生人的になっていったり、より無軌道な統治を行ったり、するのを阻止したいがためだったのではないか。
なお、この関連だが、趙高(?~BC207年)は、趙の遠縁の公族として生まれ、恐らくは宦官ではなかった人物で、「始皇帝の末子の胡亥のお守役を拝命した<ところ、やがて、>・・・始皇帝の身辺の雑務を全てこな<すことになっ>た」人物だが、彼が、「法律に詳し<かった>」とされるところから、
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%B6%99%E9%AB%98
恐らくは法家信奉者であって、政/始皇帝が、互いに姓だけでなく氏も共有する公室の公子あがりで、かつ、趙は一貫して、また秦はかつて、弥生人が普通人を統治する国であったことから、そして、政/始皇帝が弥生人返りしていたことから、両者が意気投合し、政/始皇帝が趙高をどんどん引き立てていき、政/始皇帝にとって煙たい李斯の方は次第に相対的に力を失っていったのだと思うのだ。
結局、李斯は、韓非の劣化バージョン的な趙高を排除することに失敗した上、政/始皇帝逝去後、この趙高に殺害されることになるわけだ。
しかし、更に俯瞰的に見て、より重大だったのは、秦による天下統一が、法家的墨家的統治思想の下で行われてしまって、荀子の儒家的統治思想の下で行われなかったことだったのだ。
その結果、秦による天下統一及び天下統一後の統治は、全く民主的要素なき国王による独裁制が国王が皇帝に変わっても維持されたのはやむなしとしても、その皇帝に、仁者的な存在となることが求められない、また、仁的統治も求められない、かつ、軍事軽視が奨励され、よって総動員体制も解除された、従って緩治が当然視された形で行われたところ、それが、支那の爾後の歴代諸王朝のデフォルト化することになり、支那史の悲劇性が決定付けられたのだ。
(もとより、騎馬遊牧民やゲルマン人の統治においてはつきものだった民主的要素を支那歴代王朝は欠いていたことが、そのリーダーたる皇帝の後継の座を巡っての殺人や戦争の頻度や規模を高めたことも忘れてはならないが・・。)(太田)
(続く)