太田述正コラム#14996(2025.6.10)
<渡辺信一郎『中華の成立–唐代まで』を読む(その41)>(2025年9月5日)
「秦王政17年(前230年)、・・・韓は陽翟が陥落して韓王安が捕縛されて滅んだ(韓の滅亡)。
秦王政18年(前229年)、・・・次の標的になった趙には、幽繆王の臣である郭開への買収工作がすでに完了していた。・・・趙王が讒言で<名将>李牧を誅殺<する等を>してしまい、簡単に敗れた。
秦王政19年(前228年)、趙王は捕虜となり、国は秦に併合された(趙の滅亡)。生まれた邯鄲に入った秦王政は、母の太后の実家と揉めていた者たちを生き埋めにして秦へ戻った。
⇒嫪毐がらみで裏切られた母に対してそれほどの思いがあったとは考えにくく、単に、自分の幼少期の恨みつらみを晴らしただけではなかろうか。
こんなことを許す秦の法があったとも思えず、政の弥生性丸出しの感がある。(太田)
趙王は捕らえられたが、その兄の公子嘉は代郡(河北省)に逃れ、亡命政権である代を建てた。・・・
両国の間にあった趙が滅ぶと、秦は幾度となく燕を攻め、燕は武力では太刀打ちできなかった。・・・秦王政20年(前227年)、・・・<燕>は・・・荊軻という刺客<を送り込んだが、政暗殺に失敗した。>・・・
政はこれに激怒し、同年には燕への総攻撃を仕掛け、燕・代の連合軍を易水の西で破った。
そして、・・・翌・・・秦王政19年(前226年)、・・・首都薊を落とした。荊軻の血縁をすべて殺害しても怒りは静まらず、ついには町の住民全員も殺害された。
⇒これも同様だ。(太田)
その後・・・遼東に逃れた燕王喜は・・・5年後には捕らえられた(燕の滅亡)。・・・
秦王政22年(前225年)、秦王政は・・・魏を攻め・・・、その首都・大梁を包囲した。魏は黄河と梁溝を堰き止めて大梁を水攻めされても3か月耐えたが、ついに降伏し、魏も滅んだ(魏の滅亡)。
同年、秦と並ぶ強国・楚との戦いに入った。秦王政は若い李信と蒙恬に20万の兵を与え指揮を執らせた。緒戦こそ優勢だった秦軍だが、前年に民の安撫のため楚の公子である元右丞相の昌平君を配した楚の旧都郢陳で起きた反乱 と楚軍の猛追に遭い大敗した。秦王政は将軍の王翦に秦の全軍に匹敵する60万の兵を託し、秦王政24年(紀元前223年)に楚を滅ぼした(楚の滅亡)。
最後に残った斉は約40年間ほとんど戦争をしていなかった<が、>・・・秦に攻められても斉は戦わず、・・・無抵抗のまま降伏し滅んだ(斉の滅亡)。秦が戦国時代に幕を引いたのは、秦王政26年(前221年)のことであり、政は39歳であった。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%A7%8B%E7%9A%87%E5%B8%9D
⇒このうちの楚攻めについて、時間を巻き戻して、既述したことも併せ、もう少し詳しく見てみよう。↓(太田)
「<楚の公族ではない>黄歇<(こうあつ)>が<楚の>国政に最初に登場したのが頃襄王25年(紀元前274年)、頃襄王の命を受けて秦に使いに行った時である。この頃、秦は韓・魏を従えて、楚を攻めようとしていた。黄歇は秦の昭襄王に上書し「強国である秦と楚が争っても互いに傷つき、弱い韓・魏を利するだけ」と説いた。昭襄王はこの理を認め楚と和平することにした。翌年、楚は和平の証として太子完(後の考烈王)を秦に人質として入れることになり、黄歇はその侍従として秦に入った。
頃襄王35年(紀元前264年)、楚の国元で頃襄王が病に倒れた。このままでは国外にいる太子完を押しのけて他の公子のうちの誰かが王となってしまう可能性が強いと、黄歇は秦の宰相の范雎に説いて太子完を帰国させるように願った。范雎からこれを聞いた昭襄王はまず黄歇を見舞いに返して様子を見ることにした。ここで黄歇は太子完を密かに楚へと帰国させ、自らは残ることにした。事が露見した後、昭襄王は怒って黄歇を誅殺しようとしたが、范雎のとりなしもあり、代わりに太子完の弟である公子顛(昌文君)を代わりに人質に要求したことで話はまとまり、黄歇は楚へと帰国することができた。その3カ月後に太子完が即位して楚王<(考烈王)>となった。
黄歇は考烈王よりその功績を認められて、令尹に任じられ、淮北(淮河の北)の12県を与えられ、春申君と号し<し、後に、>・・・戦国四君の一人<と称されるようになる>・・・。春申君はその元に食客を3千人集めて、上客は全て珠で飾った履を履いていたという。客の中には荀子もおり、春申君は荀子を蘭陵県の令(長官)とした。
考烈王5年(紀元前258年)、・・・首都邯鄲が秦によって包囲され<た>・・・趙<に、楚が>・・・兵を出<すと>、秦は邯鄲の包囲を解いて撤退した。
考烈王15年(紀元前248年)、斉に接する重要な土地である淮北を直轄の郡にすることを考烈王に言上し、淮北の代わりに江東を貰い、かつての呉の城を自らの居城とした。・・・これは趙の上卿(上級大臣)虞卿の献策を一部受け入れて、王族からの妬みや政治的影響を逸らすために、首都から遠い地に封地を遷したものと伝わる。その後、軍勢を動員して、魯を滅ぼした。
考烈王22年(紀元前241年)、楚・趙・魏・韓・燕の合従軍を率いて、秦を攻めたが、函谷関で敗退した(函谷関の戦い)。この失敗により、考烈王は春申君を責めて疎んじるようになる。
同年、春申君の提言により、楚は寿春へと遷都した。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%98%A5%E7%94%B3%E5%90%9B
「昌平君<(BC271~BC223年)>は、・・・昭襄王36年(紀元前271年)、前年に<上出の>春申君と共に人質として秦に入っていた楚の太子完(後の考烈王)と昭襄王の庶出の娘の間に生まれた<が、上述したように、>昭襄王44年(紀元前263年)、太子完<が>妻子を捨て、春申君とともに密かに秦を脱出すると、残された昌平君は華陽夫人(秦の孝文王正室、楚の公女)に養育され<る。>」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%98%8C%E5%B9%B3%E5%90%9B
⇒楚の頃襄王や考烈王、そして秦の昭襄王は、ステルス連衡について何も知らない黄歇(春申君)をうまく使うことによって、楚と秦の間での対立ごっこや戦いごっこを、第三国からみて迫真性を帯びた形で続けることができた、というのが私の見方なのだ。
例えば、「<楚の>考烈王4年(紀元前259年)、秦が趙に攻め寄せてきたとき、同盟を求める趙の公子の平原君(趙勝)と対談したが、考烈王は前に秦に侵攻を受けたこともあり、渋って盟約がまとまらなかった。これに業を煮やした平原君の食客の毛遂は剣を帯びて、考烈王の目前に向かい「秦の白起は楚の首都を蹂躙して楚の父祖を辱めました。今回の合従は趙のためではなく、楚のためであります」と述べ<、>この働きかけによって<考烈王は>趙と・・・の盟約<に応じ>た。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%A5%9A%E6%94%BB%E7%95%A5
というように、楚・秦以外の諸国は楚秦ステルス同盟の存在など夢にも信じたくないので決して信じようとはしなかったと考えられるところ、考烈王はあえて趙のかかる「誤解」を解かないどころか、深めるような対応をやってのけた、と見るわけだ。(太田)
(続く)